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替え玉
明穂は緊張の絶頂にいた。
初のライブ。もともと人前が苦手だった明穂が、なんの因果か歌手になり、今日この日数百人のまえで歌を歌わなければならない。
歌唱力に自信がないわけではない。問題は、あがりだ。
実力の半分も出せないのではないか、そう危惧していた。
控え室でナーバスになりながら、ただ時計とにらめっこをする。
あと一時間・・・・・・あと三十分・・・・・・。
水を何度も飲み、トイレへ何度も行く。
(できない。さっき舞台の袖から客席を見たけど、あんなに大勢のまえで歌うなんてーーきっと頭が真っ白になって歌詞を忘れるわーー恥をかくのは嫌)
マネージャーの相田も心配そうに明穂を見つめる。
このコとはデビューから一緒にやってきた。このコのあがり症は頭の痛い問題だ。それさえなければ、抜群の容姿と歌唱力で、若手ナンバーワンの地位をつかめるのに。
時は刻一刻と過ぎていく。
突然明穂が叫んだ。
「私できません!無理です!」
関係者は沈黙した。ムッとした空気が走る。相田ただ一人が明穂に近寄り、肩に手を乗せた。
「試練だよ。明穂。乗り越えなければならない」
「できないものはできないんです」
深く嘆息する相田。
「逃げていても成長はないよ」
「今日は無理です」
明穂は泣き出した。両の瞳から涙があふれ出す。
「今日だけは勘弁して。次、次から私チャレンジするから。絶対本当。お願い」
相田はじっと明穂を見つめた。そうか。今日は無理か。このコは嘘を言っているんじゃない。本当に今日は、体調が思わしくなく、挑戦する気持ちになれないのだろうーー。
備えあれば憂いなし、相田はそう思った。
相田は若いスタッフに声をかけた。
「仕方ない。あの人を呼んでくれ」
スタッフはうなずくと、控え室から出ていった。
数分後、戻ってきたスタッフは一人の女性を連れていた。
その女性は、明穂瓜二つだった。
思わず言葉を漏らす明穂。
「こ、この人、私そっくり」
明穂の言うとおりだった。顔も似ており、衣装に限って言えばまったくおなじだった。体型、背丈も似たようなものだ。
「私も無能なマネージャーではない」相田は言った。「こんなこともあろうかと、明穂の替え玉をちゃんと用意していたんだ」
「じゃ、じゃあ今日のステージはこの人がーー」
「そのとおりだ」
時間が来た。明穂の替え玉はステージに向かった。スタッフもおのおの配置につく。
大きな拍手と歓声のなか、コンサートは幕を開けた。
明穂と相田は控え室に残された。
遠くステージから、地鳴りのように音楽と歌声が響いてくる。
「明穂、いいか。今度だけだぞ、こういうことは」
「ええ」明穂は情けなくて泣いた。自分のふがいなさに泣いた。そして、想いの行き届いた相田の優しさに感動していた。
「でもーー」明穂に疑念が芽生えた。「前の方のお客さん、私じゃないって気づくんじゃないかしら。あと歌声も」
「歌声は大丈夫。口パクさ。機械で流すんだ。それに」
相田は自信を持って言う。
「多少容姿が違っていたって平気。こんなこともあろうかと、客全員も本当の明穂ファンではない替え玉にしておいたのだから」
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