替え玉

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

替え玉

 明穂は緊張の絶頂にいた。  初のライブ。もともと人前が苦手だった明穂が、なんの因果か歌手になり、今日この日数百人のまえで歌を歌わなければならない。  歌唱力に自信がないわけではない。問題は、あがりだ。  実力の半分も出せないのではないか、そう危惧していた。  控え室でナーバスになりながら、ただ時計とにらめっこをする。  あと一時間・・・・・・あと三十分・・・・・・。  水を何度も飲み、トイレへ何度も行く。 (できない。さっき舞台の袖から客席を見たけど、あんなに大勢のまえで歌うなんてーーきっと頭が真っ白になって歌詞を忘れるわーー恥をかくのは嫌)  マネージャーの相田も心配そうに明穂を見つめる。  このコとはデビューから一緒にやってきた。このコのあがり症は頭の痛い問題だ。それさえなければ、抜群の容姿と歌唱力で、若手ナンバーワンの地位をつかめるのに。  時は刻一刻と過ぎていく。  突然明穂が叫んだ。 「私できません!無理です!」  関係者は沈黙した。ムッとした空気が走る。相田ただ一人が明穂に近寄り、肩に手を乗せた。 「試練だよ。明穂。乗り越えなければならない」 「できないものはできないんです」  深く嘆息する相田。 「逃げていても成長はないよ」 「今日は無理です」  明穂は泣き出した。両の瞳から涙があふれ出す。 「今日だけは勘弁して。次、次から私チャレンジするから。絶対本当。お願い」  相田はじっと明穂を見つめた。そうか。今日は無理か。このコは嘘を言っているんじゃない。本当に今日は、体調が思わしくなく、挑戦する気持ちになれないのだろうーー。  備えあれば憂いなし、相田はそう思った。  相田は若いスタッフに声をかけた。 「仕方ない。あの人を呼んでくれ」  スタッフはうなずくと、控え室から出ていった。  数分後、戻ってきたスタッフは一人の女性を連れていた。  その女性は、明穂瓜二つだった。  思わず言葉を漏らす明穂。 「こ、この人、私そっくり」  明穂の言うとおりだった。顔も似ており、衣装に限って言えばまったくおなじだった。体型、背丈も似たようなものだ。 「私も無能なマネージャーではない」相田は言った。「こんなこともあろうかと、明穂の替え玉をちゃんと用意していたんだ」 「じゃ、じゃあ今日のステージはこの人がーー」 「そのとおりだ」  時間が来た。明穂の替え玉はステージに向かった。スタッフもおのおの配置につく。  大きな拍手と歓声のなか、コンサートは幕を開けた。  明穂と相田は控え室に残された。  遠くステージから、地鳴りのように音楽と歌声が響いてくる。 「明穂、いいか。今度だけだぞ、こういうことは」 「ええ」明穂は情けなくて泣いた。自分のふがいなさに泣いた。そして、想いの行き届いた相田の優しさに感動していた。 「でもーー」明穂に疑念が芽生えた。「前の方のお客さん、私じゃないって気づくんじゃないかしら。あと歌声も」 「歌声は大丈夫。口パクさ。機械で流すんだ。それに」  相田は自信を持って言う。 「多少容姿が違っていたって平気。こんなこともあろうかと、客全員も本当の明穂ファンではない替え玉にしておいたのだから」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!