砂漠で犬が吠えている

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 市役所で名前が呼ばれるのを待っている間に、どうやら世界は滅びてしまったようだ。灰色の建物は砂の遥か深くに埋もれ、月がきめ細やかな砂を白く浮き上がらせている。  私は砂漠の真ん中でピアノを弾いている。建物が埋もれてしまうような世界に、何故ピアノがあるのかは分からない。時間は夜で、夜空には砂が舞い上がるように星が散りばめられている。絵柄はダリか、マグリット。超現実主義(シュールレアリスム)。ピアノはグランドピアノで、音は空へと舞い上がり月を目指す。私の手はパースを嘲笑うかのようにみるみる大きくなって、鍵盤のどこにでも手が届いて、滑らかにメロディを紡ぎ出す。空想の中でなら何だって弾ける。あの頃指が短くて動かなくて弾くことが叶わなかったショパンの幻想即興曲だって。ピアノの音に合わせて犬が吠えている。  どうして私が砂漠でピアノを弾いているのかと問われると、それはもう暇で暇で仕方がないからだ。持ってきた積読ももうじきに読み終えてしまい、スマートフォンの充電も切れかけている。雑紙もなければボールペンもない。要するに、この頭を働かせる以外にすることがない。故に、空想の中で文明社会の滅亡した荒野を行く妄想を繰り広げている。  昨日人妻になった。実感はまだない。何なら婚姻届が受理されたかどうか確認中だ。ひょっとしたらまだ人妻未満なのかもしれない。  どうしても入籍日を記念日にしたくて、休日に入籍したのだ。窓の外はどんよりと曇っていた。雨女と雨男にしては及第点。無言で圧力を掛けてくる灰色の建物の地下駐車場に車を停め、学校の階段じみた階段を上り、当直室へ。担当者がご飯食べに行っちゃったからと追い返され、待つこと一時間。ようやく婚姻届を提出し、記念に回っていそうで回っていない寿司——少しお高い回転寿司——を食べた。  そして翌日になった今、未だ私は待ち続けている。
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