くしゃみが殺す

1/1
前へ
/1ページ
次へ
一  この世で最も多く、人を殺してきたものは何か。驚くなかれ、くしゃみである。 あの「ぶぇっくしょいっ」が、天地開闢以来、千何万・・・・・・いや、何億何兆何京と、数え切れないくらいの人間を殺してきたのだ。  あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、とうてい信じられたものではないだろう。だが今の世に生きてみれば分かる。世界中が知っている話だ。全ては明らかになった。これまで数千年に渡って、封印されてきた秘密が。時代を作ってきた者たちが、そろってひた隠しにしてきた秘中の秘――それがとうとう、白日に晒されたのだ。  誰が想像しただろう。くしゃみをしただけで人が死ぬなんて。ところが、一人だけいた。兼好法師。彼は『徒然草』に書いていた。比叡山に送った稚児のことを思って、絶えず「くしゃみ」と唱え続ける老尼の話を。世界の認識を根本的に捻じ曲げてしまう禁断の真実に気付いていたとするならば――やはり兼好、只者ではない。  ――鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君の、比叡山に児にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし――。 『徒然草』の中の言葉である。「ぶえっくしょい」とやった瞬間、誰かが「くしゃみ」と唱えなければ、その人は死ぬ。老尼は、そう言っていたのだ。  そしてこれが事実なのだから、世界とはまったく馬鹿げている。  この話自体への研究は、主に国学が進めていた。くしゃみが人を殺すメカニズム、そして「くしゃみ」と唱えることによって、死が回避できることの理由……。学者によって創造的に組み立てられた数多の解釈も、現在ではただ一つに定まった。  九足八面鬼――こいつの仕業である。 『名語記』や『神道集』、『御伽草子』などにも名がある。人の命を奪う鬼の名前である。名は体を表すとよく言ったもので、九本の足に八つの顔を持つ、醜悪な姿の鬼――。 いや現在では、虫の一種だと言われている。 こいつが、「ぶえっくしょい」の瞬間、その呼気に乗じて人の臓腑の中に入り込み、生命活動を停止させてしまうのだ。この恐るべき細菌虫は、顕微鏡を使ってでさえ確認することができないのに、それが酸素と同じくらいの量、大気中に無数に漂っている。何も知らない我々は、ごくごく当たり前に酸素と一緒にこの虫を吸い込んでは吐き出しているのだ。 通常の呼吸では、この虫が人体に害をすることはない。しかし、「ぶぇっくしょい」によって、喉や鼻が一瞬、大きく開く瞬間があり、それは九足八面鬼にとっては千載一遇のチャンスだ。体内に入り込まれたら、何をどうやっても助からない。瞬く間に命を取られてしまう。 この恐ろしい真実によって、様々な常識が塗り替えられた。まず、人間の死の直接の原因が、これ以外に存在しないことが明らかとなった。人は誰でも死ぬ瞬間、最後の吐息を残す。実はこれも、「ぶえっくしょい」と同じだ。死ぬ間際というのは体が弱っているから、勢いよくできないだけで、最後の一呼吸によって、九足八面鬼は体内に潜り込むのだという。その一呼吸をさせる遠因は事故や病気など色々あろうが、人が死に至る直接の原因はすべて、この吐息に乗じた細菌虫が下手人だということが分かったのだった。  じゃあ、何で僕らは今まで助かっていたのか。世の中に、「ぶえっくしょい」しない人間なんていない。でも僕らは細菌虫に命を取られずに、今まで生きてきた。 「くしゃみ」という、呪文のおかげである。  九足八面鬼は恐ろしい殺傷力を持っている一方、すごく臆病で、自分の名前を呼ばれるだけで縮こまって死んでしまうくらいなのだ。そしてこの虫は、すごく耳が良く、自分にどんな名前がついているかを把握するだけの頭の良さもある。  つまり「ぶえっつくしょい」とやってしまっても、誰かが横で、「くしゃみ」と唱えてくれればそれだけで助かるのだ。「くしゃみ」は、「九足八面鬼」を短くした言い方で、名を呼ばれたと勘違いした細菌虫がびっくりして死んでしまう。これで殺せるのは、実際に体内に入った虫だけである。僕らが死ななかったのは、たとえ「ぶえっくしょい」とやっても、常に誰かが「くしゃみ」と唱え続けてくれていたお陰なのである。  その誰か――今ではそれが、機械であったことが判明している。  政府の重要施設の地下から日本列島各地に伸びる、無数のパイプライン。それは、二十四時間一度も休むことなく稼働し、「くしゃみ」と発音し続ける巨大な発声機械とスピーカーにつながっている。この機械が発した「くしゃみ」は、地下を走る中で幾重にも共鳴して人には聞きとることができない音波と化し、地上に噴出する。人には聞き取れなくても、鋭敏な細菌虫はそれをはっきりと聞き取り、その結果、死に至るということなのだ。  毎日、日本のどこかで必ずやっていた道路工事――何のためにやっているか分からないあの工事が実はこのパイプラインの整備に他ならなかったということまで判明した。  世界の国すべてに、「くしゃみ」に相当する行為に名付けられた言葉があった。そしてその言葉を絶え間なく発生し続ける機械と、それを国の隅々にまで伝えるパイプラインが秘密裏に存在していたのである。  それが何故、露見してしまったのか。  発声機械が、ぶっ壊れたからである。 「くしゃみ」と言わなくなってしまったのだ。  その瞬間、日本だけでも五百人以上が一瞬で死んだ。  政府は大慌てで、日本中のテレビをジャックし(方法は不明)、もしもの時のために録音していた、「くしゃみ」音源を絶え間なく流した。それによって、大都市での大量死は防げた。  だが、今度はテレビの傍におらずに畑仕事などをしている田舎の人々の突然死が相次いだ。復旧には三日かかった。たった三日間、この機械が停止しただけで、日本だけでも千人近く犠牲者が出た。  これが、世界同時多発的に起こったのである。  こうなると、政府も真実を発表せざるを得なくなった。世界の首脳が同一時間帯に、国民に知らせた。結果は――誰もが予想した通り、パニックになった。  機械が止まった理由はわからない。老朽を原因とする見解もあれば、テロの可能性を示唆する説もあった。一つの国の機械が故障して、突然の大量死が起こることが、これまでに何度もあったのだ。が、多くの場合、それは病気のせいとされた。それはそれで間違いではなかった。病気は遠因の一つだったから。しかし今回、直接の原因である「くしゃみ」を公表せざるを得なくなったのは、この「遠因」に責任転嫁できなかったからである。当然大量死の理由を、誰も説明することができなかったのだ。新種のウイルスも病原体も、毒薬も化学兵器も発見されなかった。にも拘わらず、世界中で死者が出て空前絶後の恐慌となった。騒ぎを鎮めるために、ついに世界は隠匿されていた真実を公表するに至った。  その結果は――時の為政者全員が悪夢に見ていたであろう、さらなる混沌の襲来であった。 二  くしゃみによる殺人の存在が世界的に公表されて、もう二年になる。  この二年間で、人類の生活はがらりと変わってしまった。  最初は誰も信じなかった。そりゃそうだろう。こんな冗談みたいな話。  世界に納得させるために、世界政府は思い切った手段に出た。 死刑執行に、このくしゃみを使ったのだ。  まず、死刑囚を完全密閉の空間に入れる。特殊な金属で構成され、外部からの音波、電波はどれほど微弱であろうと完全に遮断される。その状態で、囚人の鼻をくすぐって、くしゃみをさせるのだ。  この方法によって、十数人の死刑囚が処理された。その様子もまた、世界中継された。一般家庭にも、そのまますばりの光景が放映された。九足八面鬼による迅速な死は、死者の体に、何の痕跡も残さない。ただ、眠るように死んでいく。納得してもらうためには、実際の死の場面であろうと、これを見せるより他ないと判断されたのである。  多くの人々は、これで納得した。 次に起こったのは、長年真実を隠匿していた政府への不審の爆発だった。  これにより、いくつかの政府が転覆した。が、転覆したところでどうなるだろう。真実に変わりはない。そして、今までは正常に働いていたこの機械が、いつまた止まるとも知れない、その不安も変わることはないのだ。  機械はその後、完全に停止したようだ。人がバタバタと死んだ。新しい機械に変えても停止するのは不思議だった。ここでも、テロの可能性が持ち上がった。あるいは――一番恐ろしいことだが、九足八面鬼が、この機械の存在を、我々人類と同時期に知り、破壊しに来ているのかもしれなかった。顕微鏡にも映らないこの細菌虫に対して、我々人類はなすすべがなかった。 人々は政府への反逆の狼煙を早々に消した。そして、自らが生き残る術を模索し始めた。  まず、コショウがこの世から姿を消した。  くしゃみを誘発するものは、たとえ日ごろの調理に欠かせない存在であったとしても、全て捨てられた。所持しているだけで死刑になるのだから、麻薬取締よりもよっぽど厳しかった。死刑執行の方法は簡単だった。違反者の顔にコショウを撒くだけで済んだ。  結果、料理が不味くなった。  次に恐れられたのは、花粉症だった。  花粉を飛ばす木々は、徹底的に伐採され、焼却された。檜も、杉も、ブタクサもヨモギも……その結果、世界から緑の殆どが消え去り、酸素が薄くなった。木造建築は全て抹消された結果、家も、神社も、寺も、全て冷たいコンクリートの建物となった。木造でなくとも、古いビルなどは破壊された。アスベストの危険があったからだ。  あまりにも立て直しの建物が多く、まったく進行しなかった。この二年で取り壊しは全て終わったものの、新築、改築完了のめどはまったく立っていない。路上は家を失った人々で溢れかえった。その中で越冬できる者は、僅かしかいなかった。風邪が、最大の脅威となった。  人々はガスマスクを使い始めた。そうなると、誰も身だしなみに注意を払わなくなった。どうせ、顔なんて見えないからだ。ガスマスクを付けられない子どもたちをどう救うかが、目下の急務となった。機械はいつ止まるかわからない。テレビの一つのチャンネルで音声を発し続ける案も出たが、そのチャンネルに切り替えていないと意味がない上、そもそもテレビを持たずに路上で生活する者が急増している。結局、周りの大人が救うしかない。くしゃみの音が聞こえたら、たちまち「くしゃみ」と唱えることができるように。この間隙が一秒以上空くと、もう助からない。昼間は良いが、夜も寝ずの番で見張らなければならなかった。多くの大人が寝不足になり、ノイローゼになった。  ここまでくると、何も知らなかった昔を恋しがる者が続出した。と同時に、一番初めの疑問が再び噴出した。くしゃみが人を殺すなんて、そんな馬鹿なことがあるのか? 何か、巨大な陰謀を隠すための詭弁なのではないか? 一度は確実に自分たちをだましていた政府の言うことだ。とても信じられたものではない。実は、政府自らがこの世界を転覆させ、人類を死滅に追いやり、限られた生き残りだけで新たな世界を創造することを目論むテロリストなのではないか――と。  とある過激派の一派が、この疑問にこたえるべく行動を起こした。世界に網を張り巡らせ、ある日、一斉に行動を開始して、全ての国の発声機械を掌握してしまった。どの国の政府も疲弊しきっていて、作戦は短時間かつ非常に簡単に遂行されてしまった。  機械を掌握したグループのリーダー――これが僕なわけだが、僕は全世界に宣言した。本日、日本時間十五時三十分を以て、この機械とパイプラインを修復不能なほどに破壊し、上空から小麦粉、コショウなど、様々なもので作った粉物爆弾を投下する。世界が生き残るなら、政府の説明は全て詭弁だったことになる。  しかし、政府の言うことが真実だったなら――? 僕は人類全虐殺の引き金を引いたことになるが、そこに大した意味はないだろう。僕の所業を書き留める人間は誰もいない。  残り十秒となった。不思議なほど心は落ち着いている。「くしゃみが殺す」ことが真実であるかなんて、どっちでも良かった。あまりにも情けなく壊れてしまった世界――そこから何かが変わるなら、行き着く先が滅亡でも僕は構わない。  残り五秒だ。ここらでペンを置こう。ジェット機の轟音が聞こえる。もうすぐだ。これで、この世界の真実が明らかにな (了)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加