ごく・らく・ちょう

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 大きな、大きな火事でした。    あれは夜の三時ぐらいでした。お父さんの家のすぐ傍にある、甲禅寺というお寺が焼け落ちたのは。  甲禅寺は、お父さんのお父さんの、そのまたお父さんの生きていた頃からある、とても古いお寺でした。中はとても広く、お堂も立派で、お堂の下にはよく、家のない人たちが勝手に寝床代わりに住みこんでいました。  お寺の住職さんは、名前を純妙様とおっしゃいました。純妙様は、厳めしいお顔をした、それでいてとても優しいお坊様で、お経を唱えることよりも、座禅を組むことよりも、絵を描くことに熱心なお坊様でした。特に好んで描かれていたのは極楽蟶――これはこの辺りに伝わる幻の蝶の名前で、漆黒の翅に淡い朱の焔を赤々と燈して、夜の帳を貫く、それはそれは美しい蝶だということでした。純妙様はその極楽蟶の姿を、墨でお描きになっては楽しんでおられました。その腕は確かで、お父さんも純妙様から頂いた極楽蟶の絵を、素晴らしい出来だとほめていました。その絵は戦火で焼けてもうありません。  純妙様には、殊に可愛がっているお弟子さんが一人おられました。連妙さまとおっしゃって、年は二十歳くらいでしょうか。浅黒い顔に目をキラキラと輝かせた、明るくて眩しいお方でした。純妙様は、たぶん黒い色がお好きだったのでしょう。この連妙さまを可愛がり、夜はご自分のお休みになっている所まで連妙様を誘っては、朝がくるまで二人きりで、ずっと囁きごとを交わしているというお話でした。    お寺に火の手が上がったのは夜の三時頃――純妙様と連妙様が未だ語らいをしている時分のことだったでしょう。それに気付いたのは、権兵衛と呼ばれている、雑役のものでした。お寺の端にある小さな小屋で、権兵衛は寝起きしていました。あの日も権兵衛は日々の務めを終わらせて、すっかり寝入ってしまっていました。しかし、その三時ごろ、不意に焦げ臭いにおいが鼻を掠め、彼は慌てて起き上がりました。権兵衛のことはよく知らないのですが、何でも鼻が効いていたという話です。  外に飛び出した権兵衛。彼はすぐに、焦げた臭いの正体を悟りました。  甲禅寺のお堂の屋根が、轟々と唸る焔に彩られ、赤々と輝いている様が眼に入ったのです。  火事だ――彼はそう思いました。しかし、まさにその瞬間、彼のすぐ近くでボボンと大きな音が鳴り、彼は激しく吹っ飛ばされました。さらに不幸なことには、彼の飛ばされていった先にはたくさんの丸太と、切り株に突き刺さったままの、一丁の斧がありました。  火に包まれたお堂からは、たくさんのお坊様たちが逃げ出してきます。その頃になると、もう火事のことは町に知れ渡っていて、たくさんの人が押し寄せていました。もちろん、お父さんも来ていました。  燃え盛るお堂の中から最後に出てきたのが、純妙様でした。純妙様は普段の厳しいお顔をいっそう険しくして、連妙! 連妙はおらぬか! と叫びました。が、返事は返ってきませんでした。  狂ったように、連妙はおらぬかと喚きたてる純妙様は、今にも焼け落ちんとするお堂のすぐ前に立っておりました。このままでは危ないと、お父さんは三人ばかりを連れて、純妙様をその場から下がらせました。純妙様は何度も話せと叫んで暴れたそうです。その力は、八十歳の人とは思えぬほど、強かったそうです。 狂い乱れる純妙様を何とか引きずりおろした、ちょうどその時でした。数百年の歴史ある甲禅寺の立派なお堂は、がらがらと音を立てて崩れ落ち、黒こげの瓦礫と変わり果てました。集う人々はみな呆然として、純妙様も醜く焼け爛れたお顔の半分をひきつらせて、ぼんやりと、燃えゆくお堂を見つめるばかりでございました。    嗚呼……純妙様の口が、ほろりと解け、言葉にならぬつぶやきが漏れだします。するとそれに答えるかのごとく、燃え盛る火の中に、ぽつりと黒い影が現れました。それは初め太陽の黒点のようにぽつんと宙に浮かんでいるばかりで、気付いた人もごくわずかだったのに、それがだんだんと大きくなってゆくにつれ、火事場に群がる人日にも、それが見えるようになってゆきました。そして最後には、その黒点は人の形をとって現われたのです。 それは真っ黒に焦げた振り袖を着た、焼け人でした。伴天連の十字架に架けられたかの如く、両手を大きく広げ、小首を傾げています。まだこっちに近付いてこようとしていることは、その足が炎の揺らめきにも増して、激しく暴れていた様子で分かりました。でも、その焼け人はそれ以上、こっちに近付いては来られませんでした。足元の瓦礫が邪魔をして、火の中から抜け出すことができないでいるのでした。それでも諦めたくないのか、両腕を広げながら、ばたばたともがき苦しむ焼け人。それを見つめているお父さんたち――。野次馬のあちこちから悲痛なうめき声と、残酷だ……という呟きが漏れました。それでもお父さんたちは、その焼け人にじっと視線を注がないではいられませんでした。背筋が凍るほど恐ろしかったのに、その焼け人には、見るものを魅了する何かがあったのでした。  純妙様も、じっとその焼け人を見つめていました。純妙様はよろよろと足を引き摺って、再び炎の近くに寄ろうとしました。それを止めるものは、誰もいませんでした。みんな、足が竦んだようになってしまっていて、気の弱い人などは、その場に座り込んでいる有様なのでした。お父さんも動くことができず、ただ汗をダラダラと流しながら、純妙様と、炎を隔てて対峙する焼け人とを、交互に見比べるばかりでした。  純妙様がそっと手を伸ばすと、焼け人はそれに気付いたのでしょうか、いっそう激しく抗います。不思議なことには、その左右に広げられた腕は、上に伸びこそすれ、下に降りようとはしませんでした。ほんとうに、伴天連の十字架にかかった人のように、ぎこちない動きで助けを求めるのでした。それは踊っているようにも見えました。戯れているようにも見えました。そして、ひらりひらりと優雅に舞っているようにも見えたのでした。  極楽蟶――純妙様の呟きを、父さんは確かに耳にしました。  それは風の音や火のはぜる音であっという間にかき消されてしまいました。それでも父さんだけは、その呟きをはっきりと聞いたのでした。純妙様の声には放心の中に、どこか恍惚の色が混じっていたそうです。  純妙様の呟きを聞いて、父さんはハッとしました。焼け人の、眼を覆いたくなるほどの無惨で恐ろしい光景の中に、わずかながらに光る人を魅了する何か――それを、純妙様が呟かれた、極楽蟶という言葉が何もかも表しているように思えたのでした。父さんが呆然とそんなことを考えていると、純妙様は小さな溜息を一つ吐いて、再び口を開きました。  嗚呼……美しい……。    そして、純妙様は笑い出しました。乱れ狂う炎の唸り声よりも辺りを不気味に轟かせながら、壊れたからくり人形の如く体をがちがちと震わせて笑い転げたのです。その声は、まるで女の人のように甲高く、野次馬の耳を劈きました。まだ若かったお父さんも、思わず耳を押さえたそうです。いつもの物静かで、言葉を紡ぐ時もひっそりと重苦しい、練れた声で話す純妙様の声とは思えませんでした。ひょっとすると、炎の中にいる焼け人が声を上げていたのかも知れません。黒坊主の焼け人が女であることは、その左右に広げられた両腕から垂れ下がる袖で分かりました。どうも振り袖の袖が、また焼けずにあるようなのです。焼け人がもがくのと一緒に袖がはたはたと閃く様も、極楽蟶を思わせるのでした。  ほほほほほほほほほほほほほほほほ!   ……純妙様の笑い叫ぶ声が、夜闇を震わせます。手足をじたばたさせ、地面を頻りに踏み鳴らしながら、純妙様の哄笑は止まりませんでした。父さんたちは、背中に氷を流しこまれたかのようにゾゾーッとしたそうです。父さんたちには、純妙様がもはや狂ってしまったものとしか、思えないのでした。そうして、いつまでも恐々と、純妙様の狂乱ぶりを、見つめているしかないのでした。  純妙様の笑い声に合わせて、眼の前の焼け人も艶めかしく乱舞している様子でした。あの哄笑が純妙様のものであったとしたなら、炎の中の焼け人はどんな風にそれを聞いていたのでしょうか。死にゆく際に聞く、さも嬉しげな笑い声――それに自らの断末魔は掻き消され、誰も救ってくれないという絶望を、ひしひしと感じながら地獄の業火に身を焼かれなければならないのです。焼け人の動きはいよいよ激しく、淫らになって、次第に欠けてきた袖を振り乱しながら羽ばたき、踊り狂いました。緋色に輝く炎を背景に、焼け人の影法師がひらひらと蠢く――この身の毛のよだつ光景に、父さんも長らく魘されたそうです。  極楽蟶の舞は、いつまでも続くかと思われました。しかし、全てを焼きつくす炎の中に、突如としてよろめいた黒い体がばったりと倒れ、濛々と火の粉が吹きあがると、ついに再び身を起こすことはなかったのでした。それと時を同じくして純妙様の哄笑も止み、後にはむせび泣く声ばかりが残って、それがぱちぱちと弾ける炎の音と一緒になって、ずっと夜を騒がせていたということです。  甲禅寺の火事は、夜の間中ずっと燃え続けて、翌朝の日が昇る前にやっと消し止められました。そして空から月と星が消え、ほんのりと琥珀色に染まった雲が棚引くのが見えるようになった頃には、甲禅寺の跡には白い煙をあちこちから立ち上らせながら、真っ黒な炭へと変わり果てた、お堂の残骸がその醜い様相を露わにしているのでした。父さんたちはその中を歩き回り、焼け残った宝物はないかと眼を皿のようにして探し回りました。結局、宝物は全て燃え尽きてしまったらしく、何も見つかりませんでした。代わりにごろごろと転がっていたのは、逃げ遅れた人たちの焦げ爛れた姿でした。お堂の中にはお坊さんのほかに、その軒下にもたくさんの人たちが寝起きしていましたから、一緒になって焼け死んでしまった人も多かったのです。  純妙様も、顔の火傷などものともせずに、灰を蹴散らして瓦礫の中に入って行きました。周囲の止めるのも聞かずに純妙様が駆けだしていった先は、昨夜、怪しげな極楽蟶が踊っていたところでした。純妙様のあとに続いて父さんもそこへ近寄って見ると、純妙様はボロボロと崩れ落ちる灰の中から、大きくて真っ黒な塊を抱き上げました。それは丸太のような太さがあり、左右からは細長い腕がだらりと垂れて、先端には丸い塊が付いていて、それは後ろにだらりと反れていました。その丸い塊には白濁した二つの眼と鼻の穴、そして焼けてもなお、きらきらと白く光りながら並ぶ歯が残っていました。  極楽蟶の飛び去った後には、焼け爛れた死体が一つ転がっていたのでありました。既に着物は焼け消えていました。死骸には蛆がびっしりと纏わり付いて、既に焦げているものもあれば、うねうねと気ぜわしく蠢いているものもありました。純妙様は傍から見てもはっきりと分かるほど蒼い顔をされ、死骸を抱き上げてそのぐちゃぐちゃになった胸に、愛しげに頬ずりしました。頬をずりずりと動かす度、爛れた胸の皮がびりびりと剥がれて、鈍色に汚れた内臓がべろべろと毀れ出しました。臓腑に汚れながらも、純妙様はいつまでも焼けた躯を愛撫しておりました。それを見て父さんは、吐き気を覚えたということです。    後片付けが全て済むと、純妙様はこの町を出て、遠い遥か彼方にあるお寺へと入ることになりました。或る晩こっそりと、誰にも告げずに純妙様は町を抜け出し、そして二度と、町へ戻ってはこなかったのであります。形見として、極楽蟶を描いた絵を数枚残したまま。その絵は、それまでに描いていたものとは違って、めらめらと激しく炎の翅をはためかせる、「動」の極楽蟶でした。それまでの物静かな、たとえば枝の先に止まっている極楽蟶を描いたようなものとは、全く違った新しい画風でした。そしてこっちの方が、ずっと美しく、真に迫っているのでした。    純妙様の行方が父さんの耳に入ったのは、甲禅寺の火事から一年ほど経った後のこと。純妙様が不思議な亡くなられ方をした、という知らせが町に入ってきたのでした。甲禅寺の代わりに入ったお寺のお部屋の中で、純妙様は首を括り、両手も左右に広げて梁につるし、まるで伴天連の十字架の如き格好をして、死んでいたそうです。その足元には、点々と何かが焼けた跡が黒い炭跡となって残り、また手には数匹の黒色をした蝶が握られていました。それらはいずれも死んでいて、警察の人が純妙様の手を開いた途端に、塵となってぼろぼろに崩れていったということです。また襖のすぐ前にも蝶が死んでいましたが、こっちの蝶は翅を焼かれて、小さな火種となって燃え上がっていたという話でした。その蝶に抑えられるようにして、一枚の紙が置かれていました。蝶の火がそれに燃え移ってしまう前に、警察の人は蝶を払いのけ、紙を手に取って開いてみました。すると、流暢な文字で、次のように認められてあったということです。    ーーわれ、煩悩から解脱することついぞ叶わなかったが故、ここに躯となりて横たわる。  その肉、常世の国に行くことならずして極楽蟶となり、浮世を遍く照らす日輪に謝す。これ愛欲の情を捨つるを拒んだが報いなり。愛慾に溺れし者は八大地獄にてその身を焼かれ、永久の命に一匹の極楽蟶と変じて浮世に悶え苦しむ。嘆く勿れ恐れる勿れ。これ、当然の報いなり。  ――連妙 之を記す。  警察の人には、何が何だかよく分かりませんでした。しかし、とりあえず遺書であるということだけは、はっきりしました。というのも、純妙様はこのお寺では、連妙と名乗って暮らしていたからでありました。純妙様――いや連妙様? の顔はガックリと垂れて、口からつつ……と黒い血を流しながらも、三日月の如くひん曲って、嬉しげに笑っているのでありました。墓場開かれた眼は何の光も映してはおらず、ただただ虚空を見つめているばかりでありましたが、目尻に寄る皺を見ている限りでは、間違いなく穏やかに笑っているようなのでした。  極楽蟶の舞を演じた焼け人の躯は、ついにその身元が分からずに、無縁仏として町の古寺に埋められました。そこには今でも、真っ黒な蝶がひらひらと、意味もなく遊びに来るということです。……。 ※ 「――随分と、奇妙な話だね」  囲炉裏の中に、煙管の灰を落としながら、私は呟いた。 「ほほほほほほほ、お気に召すようなものでは、なかったですか」  囲炉裏を隔てて、私と向かい合っている僧行の男は、袂を口に押し当て甲高く笑った。顔を隠すのは、醜く引き攣った顔の右半分を見せないためでもあっただろう。男の顔は、右側が血の気のない土気色になっていて、無惨にも爛れているのである。 「いやいや、中々面白かった。殊に、今宵のような静かな夜には打ってつけの話だ」  私はそう言い繕っておいて、煙管を吹かす。暫しの間を置いて、ゆっくりと口を開いた。 「結局は、その連妙とかいう坊様が、生きていたのだね。じゃあ、あの純妙が焼け跡から探し出した死骸は、誰のものだったのだろう。それにあの遺書も、変な書き方だったね」  男は答えない。私は構わず、ぶつぶつと自分の考えることを並べたて始めた。 「遺書には、『われ』と書いてあった。いかにも純妙自身が懺悔して、死に至る理由を書き連ねたようにも思えるのだが、最後の一言、『連妙 之を記す』というところで、全てがぶち壊しになっている。――分からないな。いったい、死んだのは、どっちだったのだろう」  あまりにも長く男が沈黙を守っているので、私は顔を上げ、なあ――と呼びかけた。 「あんたはどう思う? 死んだのは純妙か連妙か。死んだなら、どこで死んだのか……」  すると男は、顔に袖を押しあてたまま、またあの甲高い笑い声を響かせた。 「ほほほほほほほほほ……あなたも、随分と色々な事をお考えになるのね。でも……もう良いじゃありませんか。わたくしの幻燈は、これにて費えました。後に残るのは、無言の闇ばかりですわ」  それは、初めて聞く男の女言葉だった。この数カ月、こうして夜伽を共にしてきて、私は男が、ここまで巧みな女言葉を使うとは知らなかったのだ。端麗な顔だと思っていた。顔の半分が爛れていても、その美しさは微塵も薄れないと感じていた。傷跡さえ、かえって愛おしく思われたものだ。そう考えていたのは、私だけではなかったということなのか。思い返してみれば確かに、ここ数カ月の男の振る舞いも、実に慣れたものだったように、思えてならないのだが……。  考えれば考えるほど、分からない。ただ胸に、ふと薄ら寒いものを覚えた。眼前にいる、愛しきはずの男が、赤々と燃える翅を広げ、六本の足を禍々しく蠢かせる、一匹の巨大な極楽蟶に思えてならなかった。私は、それを口に出して言うことができない。言ってしまえば、何かがガラガラと、音を立てて崩れてしまいそうで、それが怖かったのだ。  男は笑いながら、私を見つめている。私はその視線を返すことができず、俯いた。  夜は、ますます更けてゆく。 (了)
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