最終話

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最終話

樹はとうとう旅立ってしまった。 「樹里さん、行ってきます!」と、遠足に行く子どものように腕を高く上げ大きく振った。私は「いってらっしゃい、気をつけてね」と玄関で見送った。いざ出発となったら泣いてしまうのではないかと少しだけ心配していたが、そんなことはなかった。樹が大通りに出たのを見送ると、すっとスイッチが入ったかのように日常に戻った。 あの日、樹が「2人の未来をどうしたいのかという答えを見つけたい」、そう言ってこれからのことを話してくれた。愛し合った後、樹にうでまくらをされながらお互いの気持ちをゆっくりと穏やかに語り合った。その時の、樹の肌のぬくもりが今も頬に残っている。 「オレは樹里とのこれからを考えるために行ってくる。ごめん、自分勝手だってわかってる」 「……」 「ここにいたってその答えは出るはずだと思うよね。でも、オレは海外で生活することで自分自身を満足させていたっていうか、自由にどこにでも行ける自分が当たり前になってて。本気になる恋愛ってのが訪れて、どちらも手放したくないというか、距離をおくというのも違うし、樹里が大事なんだけど旅に出ることも大事で、なんていうか…」 「うん、言いたいことはなんとなくわかる。どうしたいかをうまく言えない気持ちもわかる。だからね、私は樹を信じることにした。だからもう謝らないで」 自分の気持ちや思いを人に伝える難しさは私が良く知っている。私が元カレと別れる原因になったのも同じ理由だったからだ。どう伝えていいかわからないもどかしさや、うまく言葉が出てこないつらさはわかる。私がシェアハウスをするために新潟に行くと決めた時、元カレにはずっと言えなかった。やっとの思いで言った後、元カレは受け入れられずに私をさんざん罵って出て行った。お互い、自分のことしか考えていない関係だったのだとこの時思い知った。何年も一緒にいたのに、自分の気持ちを打ち明けたり、話し合ったりすることができない関係だった。 その経験があるからこそ、私たちは話し合って、意見を出し合い、互いのことをしっかり考えて、受け入れることができるくらい尊重し合えている。どちらが譲るとか、行動を制限するとかではない。だから、どんな結果になったとしても受け入れることができると、私は思う。 樹を見上げると、いたずらをして叱られているジャーマンセパードのような顔をしていた。 「私ね、相手のことを勝手に疑って怪しんで心の中に疑念や疑惑を持ちたくないの。好きな人のことを疑ってしまったらその関係はもう恋人とは言えないでしょ。だから、私がその気持ちを持ってしまう前に別れようって思ってた」 「オレは浮気はしない!樹里に出会って二人でいることがどんなに心地いいかを知ったんだ。そんな大切な人を悲しませるなんてことは絶対にしないよ」 さっきまで叱られて反省しているような顔つきだったのに、表情が変わり、瞳が私をまっすぐ捉えている。迷いのない視線だった。 「わかってる。今は理解してるよ。これが私たちの出した答え。どんな答えが待っていようとも私は受け止めるから。だから樹は我慢しないで、とことん見たいものを見て、感じたいものを感じてきて」 「樹里、ごめん。待たせてしまうことになるかもしれないと思うけど」 「わかってる。私は大丈夫」 互いを抱きしめ合い、くちびるを交わした。
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