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高いヒールでフロアを歩くと、兎耳のヘッドバンドが頭上で揺れる。
フロアに目を配りながら歩いていると、視線が自分をかすめるのがわかる。パーティの客は年配の男女ばかりだ。香西遠夜は粘っこく絡みつくような視線をさりげなくかわした。
目論見では黒服のウェイターに化けて潜入するはずだった。しかしこの別荘の主人の趣味は一般人とはちがった。大富豪の趣味としてはそこまで珍しくないのかもしれない。遠夜はハンカチ以下の布しか身につけていないコンパニオンがはべるパーティに潜入したこともある。もっともその時も、遠夜自身は黒服だった。
いま遠夜が着ているユニフォームも一応黒服といえなくもない。素材が体に吸いつくような薄いもので、腰のあやうい位置にスリットが入っていることをのぞけば。尻の真ん中に突き出しているのは白いポンポンの尻尾、バニーガールならぬバニーボーイだ。
あいにく履物は足に吸いつくほど質のいいものではない。踝のあたりが締めつけられて、すこし痛い。
脂ぎった肌の男性客がすれちがいざまに尻尾をつかみ「おっと、可愛い尾だ」とささやく。遠夜はヒールのバランスを保ちながら愛想笑いを返すが、今日の狙いはこの客ではなく、中央に君臨するパーティの主催者だ。亜熱帯のリゾートで兎をはべらせるという退廃的なポーズと裏腹に、別荘の主人は環境保護活動に巨額の資金を拠出していることで知られている。が、いつか環境を救うかもしれないイノベーションへの投資も惜しまないという側面もあった。
彼が声高に持論を語る声がはっきり聞こえるところまで、遠夜はさりげなく位置を移していく。遠夜とおなじく兎耳をつけたバニーボーイの同僚は、新顔はかならず目をつけられるぞ、と警告した。もちろん彼は遠夜がGETOの調査員だとは知る由もない。遠夜がバニーボーイになったのは、彼に目をつけられるためだ。
「原子力や地熱、水力発電は、単にクリーンというだけではない、よりすぐれたエネルギーだ。私は節水シャワーなんて嫌いだよ。消費主義と個人主義をやり玉に、他人を罰することに入れあげている連中はイノベーションをズルだと思っている。たしかに再分配にも意味はあるが、もっとうまい方法だってあるはずだ。そうじゃないか? 誰もがもっと水やエネルギーを使えるようになりつつ、環境をよりよくすることが重要だ」
あれもこれも、というわけだ。
長広舌をたれる初老の男の視界に遠夜はおさまり、話の内容に、あるいは男自身に興味を惹かれたように相手をみつめる。ご高説はもっともかもしれないが、この男にはさらに別の顔もある。夕暮れの光に照らされた美しい砂浜と海には似つかわしくない、暗い犯罪の方を向いた顔だ。
ハッキングを避けるためネットから切り離された別荘のコンピュータにはその秘密が眠っている。地球環境技術機構は犯罪を摘発する組織ではないが、下部機構の〈スコレー〉――表向きには調査部門となっているが、監視や隠蔽工作も担当する遠夜の勤務先――は、彼の秘密を監視下に置くべきだと判断した。
猫の首に鈴をつけるというわけだが、今回は多数の人員を使った大掛かりな作戦ではない。同じような任務なら遠夜もその相棒も何度もこなしている。
スパイ活動の基本は監視と隠蔽工作だが〈スコレー〉は諜報機関ではない。地球環境技術機構――Global Environment and Technology Organization――は自らの内部組織がそんな活動をしていると認めたことは一度もない。〈スコレー〉の任務は情報収集と環境教育活動に分類される。たとえそこに企業や政府に対する各種の工作活動や対テロ対策が含まれるとしても、である。
『調子はどうだ?』
耳の中に隠れたインカムから相棒の声が響いたとき、遠夜と男の目があった。
「まかせろ」遠夜はささやき、捕食獣めいた男の眸と確実に視線をあわせる。ハッとしたようにそらす。うしろめたいような、かすかに怯えたような色を浮かべながらも、誘うような笑みを浮かべる。男が手招きする。
「新顔だな。ここは初めてかね?」
遠夜はうなずき、飲み物をリクエストする男に応えた。盆にグラスをのせてそばへ寄ると男は一瞬意外そうな表情になるが、今度は唇の端に捕食者の笑みを浮かべる。パーティがはじまってけっこうな時間が経過している。男の長広舌は飽きてきた証拠だ。グラスを受け取りながら、もう一方の手が遠夜の腕に触れ、背中に回る。手は尻をするりと撫でて、素早く離れる。
「もういい時間だな。すこし休むよ。きみ、手伝ってくれ」
男の声に遠夜は当惑した表情をつくり、他のバニーボーイたちの視線をはばかるように目をふせる。怯えた小動物のように丸めた肩に男の手が触れ、ぐいっと掴む――思ったよりも強い力だった。男に従って廊下に出る。狙い通りの部屋へ向かっているとわかり、遠夜は安堵した。
バタン、とドアが閉まる。広い続き部屋の片側には巨大なベッド、反対側には壁一面を覆うキャビネットがある。部屋にはパーティがはじまる前と今とで些細な違いがあるのだが、男は気づかない。相棒はうまくやったらしい。遠夜の思いをよそに、男はユニフォームの薄い生地に手をすべらせる。
「どこの出身だ? 本島かね?」
「いいえ」
「だろうな。それならとうに私を知っているはずだ」
男の笑みが深くなったが、それはなぜか冷酷さを感じさせるもので、次の動作は唐突だった。いきなりベッドへ突き飛ばされて、ヒールを履いた足元が崩れる。まともな靴ならもっとましだったはずだが、男の動きが遠夜の予想を大きく外れていたのもたしかだ。股を裂くようにして男は遠夜にのしかかる。口に何か押し込まれ、ビリッと布が裂ける音が耳に入ったときには、遠夜はとっくに演技をやめていた。本能的に抵抗しようと動いたとたん、口に押し込まれたものを飲みこんでしまう。しまったと思った時はもう遅い。
「ガーデニングにはウッドチップがつきものだろう?」
男は体重をかけて遠夜をおさえこみながら、慣れた手つきで靴を引き抜いた。男は遠夜の踵をつかみ、なぞりながら、ほとんど優しく聞こえる口調でささやく。
「ある種のキノコはウッドチップが好物だ。きみが今飲みこんだものだよ。キノコの成分には驚くべきものがある。怖がらなくていい。すぐに気持ちがよくなる」
マジックマッシュルーム――シビレタケの一種? それとも……脳裏をすばやく横切った思考に、しかし体はついていかない。上に乗った男の手が自分の下着をずり下げていくのに、遠夜の両足はだらしなく従うだけだ。ちくしょう、と頭の中で怒声がとびかう。なんてざまだ、逆になるはずだったのに――男のズボンを下げて気をそらすのは、遠夜の方だったはずだ。
力がうまく入らないまま、遠夜はシーツに顔をつけている。尻が空気にさらされて、男のベルトがカチャカチャ鳴る。屈辱的な姿勢なのに、下半身が火照り、同時に奇妙な期待と幸福感がつのってくる。キノコの仕業だと理性がささやくが、そんなことはどうでもいいという気分が急速に高まる。背中に他人の肌を感じ、太腿を撫であげられるると、そのまま身をまかせたくなって――
「うっ……」
首のうしろで唸る声が響いた。遠夜はシーツから顔をあげる。背中に覆いかぶさっていた男の体がすぐ隣に転がっている。自分の背中にぱさりと布が落ちた。
「香西。大丈夫か」
「ああ――」
のろのろと起き上がると、相棒の大神伶史は注射器をケースに押し込み、男を抱えおこしている。
「あんたの指紋と顔を借りる」
大神はコンピュータの侵入に必要な生体情報をコピーし、部屋の反対側のキャビネットへ向かう。男の秘密はすべてそこにおさまっているのだ。
相棒が監視のための工作をしているあいだに、遠夜は引き裂かれた服をどうにか身に着け、ハイヒールを両手に下げて立ち上がった。ふらついているのに気分が悪くないのは口に突っ込まれたキノコのせいだろう。むしろ浮かれて騒ぎたいくらいだった。
大神に鎮静剤を打たれた男はベッドの上で完全に意識を失っている。遠夜は男の服をはぎとり、ベッドの上ではじまったはずの乱痴気騒ぎを演出しはじめた。大神が間に合わなかったら、自分がやらかしていたかもしれないことだ。
「終わったぞ――香西、何してる」
いきなり腕をひっぱられて我に返った。
「偽装さ。あと十秒、いや三秒か。おまえが遅かったら俺はここでくんずほぐれつやってたところさ」
ほとんど上機嫌で応えたのだが、大神は眉をひそめている。
「遅れてすまん。おまえのことだから、鎮静剤を打つタイミングを作っているとばかり――」
大神の声が低くなった。この声は悪くない、と遠夜は思う。自分が体を張って囮になったのはこれが初めてでもなく、大神は遠夜が任務に過剰にのめりこむのを許容してくれる。
「待て、香西――何か仕込まれたのか?」
相棒の大真面目な顔をみると、遠夜はにやにや笑うのをとめられなくなった。
「キノコだよ。オガクズ生まれのキノコを食わされた」
「なんだって! おい、早く吐け。洗浄しないと――」
「大丈夫だ。時間はないし、そんなことをしたら痕跡が残りすぎる。大丈夫だ、多少ラリってるだけ……脱出するぞ」
「香西、待てよ!」
焦った大神の声が、今の遠夜にはひどく気持ちよく感じる。あの時も悪くなかった、と遠夜は思い出す。相棒と肌をあわせたときだ。といっても一度しかない。半年ほど前のことだ。冬だった。今は初夏――もっとも亜熱帯のこの島では季節にそんな名前はついていない。
キノコで興奮していても任務の手順は忘れていなかった。脱出口へ向かおうとしたとき、大神が「こいつを着ろ」と布を渡してくる。膝まで覆うガウンのようなシャツはパーティ客の誰かも身に着けていた。ただしこっちは偽オートクチュールだ。
「バニーで外を歩けないだろうが」
「ああ、そうだったな」
「これも履け」
差し出されたビーチサンダルをひっかけ、遠夜はまた笑いたくなる。大神が焦ったように顔をそらすのが面白くてたまらない。これもキノコのせいだろうか。いつもの俺はこんなに愉快な性格だったか、と遠夜は思う。
**
大神は、報告は自分がするといった。遠夜がまだキノコでラリっていると見越してのことだろう。
そんなこと気にしなくていいのに、そう思ってしまうのは、実際キノコのせいかもしれない。組織が用意した安全なホテルに戻った時も遠夜の浮かれた気分は続いている。それが一瞬にして醒めたのは――少なくともそう感じたのは、ロビーに大柄な人影をみたときだった。
「クリス」
クリストファー・E・スタイン。〈スコレー〉では遠夜や大神より数段階上の立場にいる男。
「どうしてここに――いるんですか。今は五月だ」
相手は面白い話でも聞いたかのように薄い唇に笑みを浮かべた。
「五月がなんだ?」
「休暇中だと思っていました。あなたはいつも……五月はいなくなる」
「ああ、バカンスついでだ。様子を見に来た。きみがここにいるということは、鈴はうまくつけられたようだな」
「大神が報告中です」
「どうやってガードを解いた?」
クリストファーの手がシャツに伸びる。今日のあの男を思い出させるような動作で、遠夜は思わず体を引いた。クリストファーの唇がふっとゆるむ。
「ふむ。使える武器はすべて使ったらしい」
「あんたに教えられたとおりですよ」
むかっとしてそう返したのは、目の前の男との十年以上の因縁があってこそだ。特にいま、五月にクリストファーとは会いたくなかった。どうして今の自分があるのか、それを思い知らされてしまうからだ。
「香西、終わったぞ。調子はどう――っと、失礼しました。ミスター・スタイン」
大神の声が背中側から近づいてきて、遠夜の横で止まった。
「私は休暇中だよ。クリスと呼んでくれ、大神君。遠夜はずっとそう呼んでる。私は昔、彼の教官だったのでね」
「そうなんですか?」
遠夜は薄笑いを浮かべるクリスから顔をそむけた。
「クリス、よい休暇を。俺は失礼します」
さっときびすを返し、ロビーを毅然と歩き去る――つもりだった。しかし角を曲がる寸前、遠夜はやはりふりむいてしまった。クリスは大柄な体をかがめるようにして大神に話しかけている。いったい何の用があるというのか。大神は俺のバディだ。
自分でも意識しないうちにシャツのポケットに手が伸びる。硬い感触の正体はわかっていた。カードキーだ。さっきクリスが手を伸ばしたとき、遠夜の胸元に差し込まれたものだ。カードキーはこのホテルのものではなかった。もう一段格式の高い、隣接するリゾートホテルのものだ。
忌々しく思いながらキーをポケットに戻し、部屋に帰った。クリストファーと話していたあいだにキノコの効果は薄れたのだろうか。体にいつもの感覚が戻ったと思ったとたん、足元が痒くて仕方なくなった。
「どうした?」
ソファにすわり、膝を抱えるようにして右足の踝をさすっていると、上から大神の声が響いた。
「痒い」
「虫に刺された?」
「気づかなかった――」遠夜はそういったものの、手を離すとかかとから踝にかけて、うっすらと桃色に染まっていた。
「腫れやすいたちなのか?」大神がソファの横に膝をつき、のぞきこむ。
「冷やせ。いや、薬を塗れよ」
どういうわけかそのとたん、クリストファーが大神に話しかけていた光景が遠夜の頭を占領する。
「大神。さっきクリスは何をいった? 何を話した?」
問いかけは衝動的なもので、だからこそ止められなかった。大神の肩が一瞬こわばったのは、遠夜の勢いのせいか、それとも他の理由があったのか。
「たいした話じゃない。社交辞令みたいなものだろう……」
「それだけか? なぜ今日、ここに来たかとか、そんな話は?」
「いや? どうしてそんなことを俺に話す?」
大神は不思議そうに遠夜をみる。
「香西、大丈夫か? さっきのキノコは――」
「大丈夫だ」
もちろん大神は知らない。知るはずもない。遠夜はシャツのポケットを意識する。どうしてクリスは今日、ここにいる?
窓の外はもう暗かった。誘いに乗るべきだろうか。
五月。昔、この日に友人が消え、遠夜はクリストファーと否応なくかかわることになり――そしていまだに、あのときの真実を知らない。すべてはあの男の胸のうちにある。
だがひょっとしたら、今日こそ答えを得られるのでは。
すべては空手形かもしれない。そう思っていても、ポケットのカードキーは遠夜に希望を与えてしまう。
***
真っ暗の部屋を間接照明が柔らかく満たす。
「明かりくらいつけたらどうだ」
クリストファーがいった。遠夜は膝を抱えてソファにうずくまっていた。自分と大神に用意されたツインルームの三倍は広い部屋ではソファも特大だ。
「あんたも同じことをしたでしょう」と、顔もあげずに答えた。
どうしてこの男の前にいると自分は不貞腐れた十代の少年のようにふるまってしまうのか。最初の出会いから十数年たつのに、クリストファーと向きあった瞬間、遠夜は自分が対等に交渉できる大人ではなく、途方に暮れた子供の気分に陥る。この男にそう躾けられてしまったせいだ――とは絶対に思いたくない。
「クリス。俺を呼んだ用件はなんです?」
「いつもそれを聞くな」
「あんたは意味のない行動はしない。おまけに休暇中なんでしょう?」
しかもよりによって、今日という日に。最後に付け加えそうになった言葉を遠夜は飲みこむ。クリストファーは底知れない笑みをうかべた。
「今日のターゲットには長年手を焼いていた。実はきみたちが知らされていたより厄介な相手で、きみたちが思っていたより複雑な案件なのだ。だからきみのバディに感謝を伝えておきたかったのさ」
「それで大神に?」
「気になるか」
大柄な男は遠夜の横に腰をおろし、柔らかいソファの表面がしなるように揺れた。遠夜は膝を抱えたままクリストファーと向きあった。
薄い色の眸に心の底まで見透かされているような気がするが、そらしたら負けだとも思う。十代のころ、最初に出会った時もそう思ったのだ。自分はそうすべきでなかったのかもしれない。この男から目をそらし、うつむいて、兎のように逃げ去るべきだったのだ。そうすれば星も消えてしまわなかった……?
そうとはかぎらない。クリストファーがあらわれようがあらわれまいが、あのとき自分と前崎星は袋小路にいたにちがいない。そしてクリストファーからあの時も今も逃げようとしない自分は、本当は何を望んでいるのか。
俺はこの男を求めているわけじゃない。
「大神はきみを甘やかしているようだな」
クリストファーはからかうような口調でいった。
「俺の相方の査定なら職務中にやってください。あんたは休暇中だ」
「職務中か。きみがここにいるのを彼は知っているのか?」
遠夜は無表情を保った。
「ずいぶん大神のことを気にしますね」
「なんといっても愛弟子のバディだ」
愛弟子? 遠夜は顔をしかめた。
「俺の相方が長持ちしているのが気に入りませんか。前の二人とちがって」
「まさか、安心しているとも。そもそもあれはきみではなく彼らに問題があった。適切な人員配置ができなかったこちらの問題だ」
だから気にかけているとでもいいたいのか。遠夜は反射的に同僚のだった男ふたりの顔を思い出そうとしたが、顔の輪郭と髪型しか浮かばなかった。他人の顔を記憶するのが商売だというのに、まだキノコの作用が残っているのか。
「彼には教官時代の思い出話をしただけだ」
「必要ないでしょう」
「そうともかぎらない。手段を選べないターゲットに対するとき、バディがどう感じているかには注意したまえ」
遠夜はため息をついた。
「ターゲットの嗜好を調べた上で大神と決めた方法ですよ。あんたが俺に教えたことでしょう」
「実は一度失敗しているのだよ。きみと同じ、誘惑に長けた所員がね……バディで当たらせるよう提案したのは私だ」
「なるほど。あんたは本来、俺など話もできない雲の上の存在ですからね」
「拗ねるな」
「まさか。俺がここにいるのは……どうして今日なのかということです」
クリストファーはわざとらしくみえるくらい、ゆったりとうなずいた。
「ああ、五月だったな」
遠夜は息を吸った。ひと息でいった。
「もう十年以上たつ。それなのにまだ教えられないんですか」
伸びてきたクリストファーの手を遠夜は払ったが、大柄な男はものともしなかった。
自分より大きな相手との戦い方を教えたのもクリストファーで、戦えないときの逃げ方を教えたのもクリストファーだ。つまりこの男は遠夜の出方を熟知している。まったく、たちが悪い。
もっとたちが悪いのは、クリストファーが自分の魅力を正確に把握していることだ。
〈スコレー〉に所属して、任務に必要な駆け引きには熟達したはずなのに、クリストファーを前にすると自信が崩れそうになる。すぐそばに座っていると、この男の魅力に屈しそうになる。
「遠夜に光る松の葉に、懺悔の涙したたりて、遠夜の空にしも白ろき……この詩はきみの名前に関係あるのかね?」
唐突にも感じられる問いに、遠夜は動揺をみせまいとしてそっけなく答える。
「知りません。あんたも知っての通り、俺の親はろくでなしで教養もありませんでしたからね。縁起でもない命名だなんて思わなかったんじゃないですか」
「萩原朔太郎は嫌いか」
「陰気な詩人でしょう。その詩は星が教えてくれたんです。あいつは中学生のときからいろんなことを知ってた。俺よりずっと……ましな人間だったから」
目をそらしてしまったのは失敗だった。いったんうつむいてしまえば、相手の顔をみられなくなる。クリストファーの淡々とした声しか聞こえなくなる。
「きみがそう思うのなら、どこかでましな暮らしをしているだろう」
「それが答えですか」
「私に話せることはない。そう前もいったはずだ」
「だったら、どうして――!」
思わず遠夜は拳をにぎりしめ、顔をあげた。
「どうして俺を呼ぶんだ。俺が何を求めているか知っているくせに。あんたが俺を……こんなふうにしたのに」
「こんなふうに?」クリストファーの眸に思いがけなく優しい色がうかぶ。
「きみが綺麗なのは私のせいじゃない。私がたまにきみに会いにくるのは、会いたいからだ。愛弟子だといっただろう?」
「信じませんよ」
クリストファーの手のひらが遠夜の膝頭をつかんだ。コットンのスラックスの表面を滑るように降りていく。かかとをもちあげられる。クリストファーの手を振り払おうとしない自分自身を遠夜は嗤いたくなる。
「腫れているな」
桃色に腫れた右足の踝をクリストファーの指がなぞった。欲情で下半身が熱くなる。いつもこうなるのだ。いつも――求めているものを得られないまま、肉体の悦びに溺れてしまう自分がいる。
と、そのときなぜか大神の顔が脳裏に浮かんだ。ハッとして遠夜は膝をのばし、蹴り飛ばすようにしてクリストファーをしりぞけた。薄い色の眸が遠夜を凝視し、驚いているのがわかった。
「帰ります。もう用は済んだ」
欲情した体をなだめる暇もなく、なんとか威厳を保ちながら部屋の外へ向かおうとする。扉をあけたとき、クリストファーの声がきこえた。
「きみは天性の誘惑者だ。その自覚は持っておきたまえ」
****
ホテルの正面入り口はまだ開いている。クリストファーの部屋に行ったのは大神と食事をしたあとだった。彼はいま何をしているだろう。酒を飲んでいるか、本を読んでいるかもしれない。大神は思いのほか読書家で、任務に必要のない小説のたぐいも読む。
任務のたびに各地のホテルやセーフハウスに泊まっているから、いやおうなく相手のことを知るようになる。だが昨年の年末のようなことは二度は起きていない。任務がおわったあとの興奮のせいか、一度だけ体を重ねた日のことだ。
五カ月以上経ついま、遠夜も大神も、あの夜のことは忘れたふりをしている。
大神はあのとき、俺たちはバディだといった。遠夜も同感するところだ。
バディはお互いについてよく知っている。だがけっして恋人ではない。恋人になってしまえば今日のような任務はできなくなる。バディに必要なのは独占欲ではなく信頼だ。任務によっては長い時間狭い場所で過ごすこともある。そんなときにも相手に我慢できるくらいの、信頼。
長所や短所は問題ではない。緊迫した状況においては美徳とされる特徴が諍いの原因になることもある。良いも悪いもひっくるめた上で、しばらくのあいだ相手を許容できる程度の信頼、これが重要だ。
大神と同じ部屋で眠ることには何の問題もなかった。だが今日だけはツインルームにするべきではなかった。ホテルのドアをあけたとき、遠夜は後悔した。
「早かったな」
大神は椅子に座っていた。文庫本を片手に遠夜をみあげる。
「早かった?」遠夜は思わず聞き返した。
「スタインに会いにいったんじゃないのか。友人なんだろう」
「友人? まさか」
遠夜は吐き出すようにいった。大神は本を閉じた。小さなテーブルに酒のグラスがあった。小さくなった氷が浮かんでいる。
「今日は戻らないのかと思った」大神が静かにいった。
「なぜ」
「任務はおわって、スタインも来た。だから……」
「何がいいたい」
遠夜は大股に近づくと、テーブルのグラスをとって一気に飲んだ。
「まて、俺の酒――」
止めようというのか、大神の手が伸びる。その指をまとめて掴んで、遠夜は大神に顔を寄せる。
「クリスは俺のメンターだが、つきあいはもっと古い。俺が馬鹿な十代だったとき、とある事件をやらかした。そのとき事態を収拾するために出てきたのがクリスだ。しばらくして、俺と一緒にいた友人の行方がわからなくなった。クリスは何か知っているはずだ。そう思って彼に近づいた。それがはじまりだ」
「スコレーにおまえがいるきっかけ?」
大神の顔がすぐ近くにある。
任務をつづけるあいだに家族よりも詳しく知るようになった顔だ。前にバディだった二人の顔は大神ほどよく見ていない。彼らとは今日のような任務は絶対にできなかった。
「香西。俺の酒を返せ」
大神がいった。
「無理だ。もう飲んだ」
唇を寄せたのは大神が先だった――それとも大神が遠夜の欲情を受け入れたのか。
いったん重ねてしまうとそんなことはどうでもよくなる。ウイスキーの香りがする唇が重なり、舌が触れあう。遠夜の首に大神の腕がまわり、引き寄せられた。相手の膝にのりあげるようにしてキスを続け、どちらの体も熱をもっているのを確認する。
バディだから相手の求めているものがわかるのだ。それだけだ。
「香西……例のキノコの影響は……」大神が唇を離し、ささやく。
「知るか」
もつれあうようにしてベッドへ行った。スプリングの効いたマットレスは男二人の体重にもきしまない。シャツを脱ぎかけて、部屋が明るすぎるように感じた。うつ伏せになってヘッドボードのスイッチに手を伸ばしたとき、大神が遠夜の足首をつかんだ。
「まだ腫れてるぞ」
「だからなんだ……」
生暖かい感触が踝をなぞる。大神が舐めているのだ。踝、かかと、爪先。背筋にぞくっと快感が立ち上がる。薄暗くなった室内で遠夜は慌ただしく服を脱ぎすてる。おなじように裸になった大神が上にかぶさってくる。
昼間、バニーボーイの格好で押し倒された時の気分が蘇ったが、一瞬だけだった。先端ではなく根元を弄られ、さらに尻の穴の周囲を執拗に舐められる。うしろに唾液にまみれた指が入って、遠夜の中をまさぐる。クリストファーが遠夜に教えた粘っこい愛撫ではない。でも今はこれが欲しかった。今の遠夜を誰よりも知っている人間の手だ。
「あっ、あ……」
中の襞をこすられて思わず声がもれる。もっと奥にほしいのに、指が抜き取られ、その感触も遠夜に快感をもたらす。顔の横に何か落ちてきて、目をあけるとコンドームのパッケージだった。
遠夜は笑いそうになる。用意のいいやつだ。おまえが使うはずの相手は誰だったんだ?
自分ではないはずだ。そうでなくてはいけない。俺たちはバディだ。恋人じゃない。
「香西……いいか?」
「早くしろよ」
遠夜は無意識に尻の穴をみせつけている。クリストファーがかつて教えたように。その肢体が大神にどうみえているのか、遠夜自身は気づかないまま。大神が唾を吐き、尻の中を濡らした。きついのは最初だけで、馴染んでくると動いてほしくなる。誘うように腰を揺らすと、大神が小さく息をつき、ぐっと奥へ突っ込んできた。
「あっ、ああ、いいっ、あ……」
こすられるたびに声が漏れる。大神が一度うごきを止め、遠夜の背中に腕をかける。体勢を変えたいのだと遠夜は理解する――バディというのは便利なものだ。繋がったまま仰向けになり、足を曲げる。奥をズンッと突かれて、頭の隅に星が飛んだ。今欲しいのはこれだ。クリスじゃない。
「うんっ、ああっ、おおがみっ……」
喉から声が飛び出した。みると大神の顔がすぐ近くにあった。また唇を塞がれて、目を閉じる。尻を突かれながら唇をあわせていると、自分のすみずみまで大神が侵入してくるような気分になる。手放せ、と要求されているかのようだ。だが、いったい何を?
遠夜は大神の首に手を回しているだけで精一杯なのに、向こうは遠夜のペニスをゆるくつかんで扱きはじめた。遠夜が頂点に達しそうになったとき、大神は唸るような声をあげ、激しく腰を打ちつけてくる。
「はっ、あっ、ああ……」
長く尾を引くような快楽に思ってもみない喘ぎが漏れた。職務として誰かを誘惑するときはけっして出さない声だ。
バディはすべて知っている? そんな馬鹿な。でも今、この時はたしかにそう思えた。シーツの上で、遠夜は大神に自分のすべてを明け渡していく。
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