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2. ほろ酔いオジサン
電車の窓ガラスに映る隣の人を、何気なく
見ると、斜め横の発泡酒の広告を眺めていた。
反対の人を見ると、ほろ酔い状態なのか、
頬を赤らめ、どこか一点を見つめている
50代半ばのオジサンの姿。
寒くなったり暑くなったりする、
季節の変わり目。
終電に近い時間帯、満員状態で肩身を狭くしているほとんどの乗車客が、薄手のスプリングコートを羽織っている。
これだけの人それぞれに、自分だけの世界が
あり、そこで喜んだり悲しんだり、浮かれたり
嘆いたりして、毎日を一歩ずつ歩んでいる。
自分の中で大参事があったとしても、
隣の人にとっては、何の関係もなく、
発泡酒のキャンペーンで当たるバーベキュー
セットの方が何十倍も興味があるのだ。
もちろん、私だって自分自身のことで精一杯。
お隣の人の悩み事に真摯になって耳を傾け、
共感して差し上げられる余力は残っておりません。
そんな事を考えながら、
私は電車の揺れに身を任せ、重い目を閉じた。
一駅過ぎ、二駅過ぎ......
目を閉じていたって、どの辺りを走っているかは分かる。
このカーブを過ぎたら、到着駅を告げるアナウンスが流れ、この車両に乗る多くの人が、電車内からホームへスムーズに降りられるように心の準備をし始める。
その内の一人である私も、そろそろかかる
ブレーキに備えて、つり革を握っている右手に
力を入れた。
すると、何やら左の方から強い視線を感じる。
気のせいだろうか。
いや、気のせいではないぞ。
薄れることのない違和感。
私は閉じていた重い目をゆっくりと開けた。
そして左側をちらっと見ると......
がっつりと、
ほろ酔いオジサンが私を見つめている。
一度完全に目を合わせてしまった私は、
これはヤバいと身の危険を察し、
二度とオジサンと目を合わさぬよう真正面を
すがるように見つめた。
その次の瞬間、オジサンが、
私の左頬に、優しくチュウをした。
〈 えっ 〉
二度と見るまいと、数秒前に心に誓った私だったが、反射的にとんでもないことをしてくれたオジサンの顔を見た。
するとオジサンは、
幸せそうに微笑んでいた......
〈 えーーーっ 〉
周りの乗車客は、ポカンと口を開けて、
気の毒そうな目で私とオジサンの成り行きを
見届けている。
なんなの、このフワフワした空気。
その時、オジサンが作り出したシャボン玉に
包まれたような不思議な雰囲気を、両手で
パンッと割ったかのように勢いよく電車が
ホームに止まり、扉が大きく開かれた。
そして、いつもと同じように私の体は、
人の波に流されるかのように外へ押し出され、
冷たい空気を体内に取り込もうと必死に息継ぎをした。
そして抵抗する間もなく、そのまま上りの
エスカレーターに乗せられ、自動的に改札の
外へ追いやられた。
ほろ酔いオジサンが、
その後どこへ流れ着いたのかは知らない。
私の左頬に微かに残されたお酒の匂いと、
一刻も早く忘れ去りたいオジサンの唇の温度と吸い付くような感触。
あぁ、早く帰って、顔を洗いたい......
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