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『樹様。ひとまず車へお戻りください』
片手で悪党の腕をねじり上げたまま流暢な英語で話す付き人に、樹は泣きつきたい気持ちを堪えて小さくこくりと頷いた。
未だ状況を理解していない百合香の手を引いて坂を下りる。頭がまだぼうっとしていて、足元がなんだかふわふわする。
山百合の甘い香りがあちらこちらから広がって、まるで夢の中を歩いているみたいだ。
「どこ行くの?」
『…………』
「何して遊ぶ? 百合香ねえ、おうちごっこしたいなぁ」
『…………』
木々と山百合の坂を下りきると、古い遊具が点々と残る小さな広場へたどり着いた。柱が赤く錆びついた滑り台は上まで登れないよう板が張られている。ブランコだってシーソーだって黄色いテープでぐるぐる巻き。砂場は猫の粗相防止のつもりか、ビニールシートで覆い隠されている。
なにも遊べない寂れた公園。
でもここは、樹にとって本当に大切な場所だった。ひどい孤独にさいなまれた時でも、父に邪険に扱われた時でも、ここへ来ればいつも百合香が笑顔で一緒にいてくれた。
百合香は、樹のすべてだった。
「じゃあ、百合香がお母さんやるから、サーレくんが赤ちゃんね」
公園の傍で見慣れた車がハザードをつけて停まっている。中から車窓に張り付いた兄が、ほっとした顔でこちらを見ていた。再びこみ上げる安心感に、また泣きそうになるのを堪える。
でも、まだ終わりじゃない。
樹は小さく息を吐き、一輪の山百合をそっと手折った。
『ユリカ、これを』
山百合を手渡された百合香は、不思議そうな顔をしながらも素直にそれを受け取った。花の中に顔をうずめながら、彼女はにっこりと微笑んで樹を上目遣いに見る。
『俺はもう、ここへは来ない。俺が一緒だと、ユリカをまた危ないことに巻き込んでしまうかもしれないから』
通じないのは承知の上で、樹は淡々と言葉を続ける。
『でも、もし、俺が大人になって、またユリカと出会えたなら……俺は全力でユリカを守る。絶対に怖い思いなんてさせない。だからその時は』
山百合を握る百合香の手をそっと両手で包み込み、樹は自分の精一杯の想いを込めて告げた。
『……俺と、結婚してほしい』
英語がわからない百合香にしてみたら、樹がどうして顔を赤らめているのかなんて推測のしようがなかっただろう。大きな瞳をぱちくりさせて、百合香はじいっと樹の瞳を見つめている。
そうしてやがて、彼女は思い出したように眉を上げると、
「はい!」
と言って、自分がずっと握っていた山百合を樹へ差し出した。
『……これは?』
「茎がもうくたくただからね、ここのあたりをハサミで切って、お水にちゃんとつけてあげてね」
『……ユリカ、あの』
「そうすればしばらく綺麗に咲くって、お母さん言ってたから。百合香もそうするね。サーレくんにもらったお花、百合香のお部屋にずっと飾るよ」
半ば押し付けられるように百合を渡され、樹は少し困惑する。でも、百合香の方はいつもどおりの上機嫌な顔で笑っている。
彼女に渡された山百合は、逃げ回る間ずっと握りしめられていたせいだろう、少しくたびれてしおれている。
でも樹には、世界一美しい花のように思えた。
「もうおうちに帰るんでしょ?」
兄の付き人から連絡を受けたらしく、父の部下たちが集まってきた。大丈夫ですか、と口々に言われ、なんだか急に恥ずかしくなって百合香から一歩離れてしまう。
百合香は樹から受け取った山百合を大切そうに抱えながら、大きく手を振り公園の外へと去っていった。
「また遊ぼうね。大好きだよ!」
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