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結局ほとんど寝つけないまま、カーテンの合間から差し込む朝日で身体を起こした。
いつもの癖でスマホを手に取り、夜中のうちに樹くんから返事があったと気づく。わかった、というとても端的な言葉が、不思議なほどに心を刺激してなんだか涙が出そうになる。
帰り支度をして部屋でうとうととしていると、今度はきちんとノックをしてから桂さんが入ってきた。昨夜のことなどそれこそ夢みたいに平然とした桂さんに対し、私の表情はどんより曇ったまま彼の足元を見つめるしかできない。
「帰るんでしょ。下まで送るよ」
ここで断るのもおかしい気がして、彼と一緒にエレベーターに乗った。いつもより重力を強く感じる。寝不足のせいか、胃のあたりが気持ち悪い。
「今日はひとまず返してやるけど」
どこか遠くを眺めながら、桂さんは上機嫌に言う。
「いつか必ず、お前は僕のもとへ戻ってくる」
「……どういう意味ですか?」
「別に」
睨むみたいになってしまった私へ余裕綽々の笑顔を返し、桂さんは軽い足取りでエレベーターを降りていく。
仕方なくその後を歩き出した私は、外の道路から病院めがけて一人の男性が走ってくる姿に気がついた。自動ドアが開くのも待ちきれないといったように、彼は手でドアをこじ開けながら息を切らして駆け込んでくる――
「樹くん……!?」
言ってから、頭が一気に真っ白になった。何も見えない。聞こえない。立っている感覚すらない。ただ、足元に暗くくすぶっていた不安が、ここぞとばかりに這い上がってくるのがわかる。
こんな時間に迎えに来るなんて、一言も書いていなかった。そもそもこの病院にいたことすら私は教えていなかったはずだ。
震える足が逃げ道を探して無意識に一歩後退する。私のかかとのすぐそばで、崖が崩れていく音がする。
「なん、で」
かすかに上ずった樹くんの声で、視界が現実を取り戻す。
でも、私の想定とは裏腹に、樹くんは私ではなく斜め前の桂さんの方を見ていた。見開かれた切れ長の瞳。二の句を継げず開いたままの口。驚愕と絶望の入り混じるその視線を真っ向から受けて、桂さんは……微笑んでいる。
「樹くん、あのっ」
駆けだそうとした私の行く手を、桂さんの腕が遮った。思わず足を止めた私の、戸惑う頬を片手で掴んで、桂さんは――樹くんに見せつけるみたいに、噛みつくようなキスをする。
んっ、とくぐもった声が漏れ、私は必死に抵抗する。それすらも楽しむみたいに桂さんはくくと喉で笑って、私の唇を解放するとともに勢いよく背中を突き飛ばした。
二、三歩つんのめり、そのまま床に膝をついた私は、視界の端によく知る黒いスニーカーの紐を見た。全身の毛が途端に逆立つ。怖くて、怖くて、顔を上げられない。
私は……樹くんを裏切った。
「行けよ、百合香」
桂さんの冷めた声が、どこか遠くから聞こえてくる。
彼は心から愉快そうに笑いつつ、最後に甘く囁いた。
「これで、キスは二度目だね」
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