第十五章 溺愛という名の病

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 部屋の中は自由に歩ける。お風呂もトイレも、飲食だって制限はない。  ただ、外へは出られない。スマホとパソコンも取り上げられて、連絡を取る手段もない。  軟禁。  箱庭の平穏の中で、私は今日も目を覚ます。 (今日で何日目?)  社長や上司はどうしているだろう。突然休職届なんて出されて、きっと戸惑っているはずだ。  申し訳なさで胃が痛むと同時に、樹くんへの抗いがたい拒否感が胸に渦巻いていく。事の発端が私にあるのは十分に理解している。結局はすべて私のせい。でも私のしたことは、ここまでされなきゃならないほどのことだったのだろうか。  隠しようのない人権侵害を甘い言葉でコーティングして、樹くんは夜ごと私に愛していると吹き込んでくる。  その言葉に今まで通りの素直な悦びを覚える反面、彼の秘める途方もない狂気におののいている自分がいる。 (私は本当にこのままでいいの? これが、私の幸せなの?)  いつ終わるかもわからない軟禁生活の中で、自問自答をいったい何度繰り返しただろう。  樹くんは相変わらずリビングのソファでまどろんでいる。この家の出口は玄関とベランダの二つしかなく、ソファの上はその両方を同時に見張れる位置になる。  警戒……されているのだろう。私がまた、何も言わずに桂さんのもとへ行くのではないかと。  ぶかぶかのジャージの裾を引きずりながら、大きなため息が口からこぼれた。左胸に『波留』と刺繍されたジャージは、肌着だけの私が寒そうにしていたら樹くんが渡してくれたものだ。  ジャージはいいから自分の服を返してほしいとお願いしたけど、樹くんは悲しげに微笑むだけで何も答えてはくれなかった。結局私は、樹くんのにおいの沁みついたこのジャージをまとい、自分の部屋で死体みたいに何もせず寝転がっている。 (本当に、これでいいの?)  時計の針だけが私をあざ笑うみたいに刻一刻と過ぎ去っていく。  美咲。美咲に会いたい。新潟のお父さんお母さん。一華さん。椎名くん。もうこの際、誰でもいい。  私の現状を客観的に見て、誰かに判断してほしい。これは、私が悪いせい? それとも樹くんがおかしいせい?  ふいにリビングから足音が聞こえて、私は狙われた小動物みたいにベッドの上で飛び上がった。玄関の鍵の開く音。まさかと思いそっと様子を伺うと、さっきまでソファで横になっていたはずの樹くんの姿がない。 (そうか、ゴミ捨てだ。今日は燃えるゴミの日だから、たぶんゴミ捨て場に行ったんだ)  軟禁生活が始まって以来、樹くんの姿がこのリビングから消えることはほとんどなかった。でも今、樹くんはこのマンションのすぐ傍にあるゴミ捨て場まで向かっている。  逃げるなら、今しかない。焦る私の心がせっつく。 (でも、逃げてどうするの?)  わからない。でも逆に、ここで逃げなくてどうするの?  樹くんの心が氷解するのを待ち続ける? ひたすら従順に、彼の望む私になって、樹くんが何もかも忘れるまで何年も何十年も待つつもり? (――逃げよう)
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