第十五章 溺愛という名の病

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 決めてしまえば、速かった。  私はベランダの掃き出し窓を開け、勢いのまま手すりに足をかける。  そのまま半身を外に出したのだけど、想像以上の四階の高さに背中がぶるっと震えあがった。これは、着地に失敗したら……いや、失敗しなくても死ぬかもしれない。  道路脇には植え込みがある。あそこにうまく落ちることができればと考えたけど、そもそも私の目的は脱出ではなく逃亡だ。命だけは助かったけど足を骨折して逃げられませんでした、なんて笑い話にもなりはしない。  もたもたしている時間はない。私はベランダのコンテナボックスを開けて、大急ぎで中身をひっくり返した。予想していたものを発見し、ほんの少しだけほっとする。市販の非常用縄はしごだ。 (樹くんが戻ってくる前に、急いで逃げないと)  見よう見まねではしごを設置し、大きく息を吸い込んだ。しっかりと縄を握りしめ、できるだけ下を見ないようにしながら一歩一歩降っていく。指に食い込む縄が痛い。背中を撫でる風が怖い。でも私には時間がない。 「あっ」  その瞬間、突然右手が空を掴んで身体がぐんと引き剥がされた。手汗で滑った、と気づいたときにはすでに遅くて、身体が宙に浮く感覚とともに視界がスローモーションになる。それが一瞬、まばたきをする間もなく加速したと思うと、内臓が飛び出そうなほどすさまじい衝撃に打たれた。  落ちたんだ。  びりびりと身体がしびれているけど、思ったよりも痛くない。たぶんうまく植え込みの上に落下することができたからだろう。でも、これで終わりじゃない。急いでここから逃げ出さないと、彼に見つかったらすぐ連れ戻される。  枝葉で切って傷だらけの足を引きずりながら、私がよろよろと歩道へ出ると、まるで狙いすましたかのように傍らの道路に車が停まった。助手席のドアが開いて、スーツ姿の男の人が――どこかで見たことがある人が、顔色一つ変えずに近づいてくる。 「こちらへどうぞ。桂様がお待ちです」  ああ、思い出した。この人、桂さんの病室から出てきた人だ。  とても大きな、でも、比較的新しい和風の豪邸。警備員付きの大きな門からこのお屋敷の玄関に至るまで、車でずいぶん走った気がする。  眼鏡の人に連れられるまま、お屋敷の奥の部屋へ通される。明治時代の建物みたいなモダンな雰囲気の応接間では、豪奢な刺繍の施されたソファに桂さんが一人で座っていた。 「言ったでしょ。僕のもとに戻ってくるって」  ……すべてこの人の手の上だったかと、気づいても怒る元気がない。 「意外だな。僕はてっきり、お前は全裸で逃げ出してくるものだとばかり思っていたけど……下着だけじゃなくて服もきちんと与えてくれるだなんて、あいつは案外甘いんだね」  部屋の入り口で立ったままの私の前へ、桂さんはゆったりとした足取りで近づいてくる。腰に触れようとした彼の手を、私は今度こそ躊躇なく、いっさいの情もなく振り払った。 「冷たいね」  くく、と桂さんは喉で笑う。  私は彼の顔を思い切り睨むと、 「別に、あなたのもとに戻ってきたわけじゃありません」  挑みかかるような勢いできっぱりと言い捨てた。 「話を聞きに来たんです」  桂さんの天使の笑みが、より一層深くなる。  妙齢の家政婦さんが、紅茶と軟膏を運んできた。紅茶の柔らかな香りに包まれると途端に足の痛みを思い出し、私は脂汗を流しながらそろそろとソファへ腰を下ろす。  頂いた軟膏を足の裏に塗り、膝に手を置いてじっとしていると、紅茶に唇をつけた桂さんがふぅと小さくため息を吐いた。 「なら、お望みどおり聞かせてあげよう。僕が知っているすべてのこと――」  喉が鳴る。  桂さんは、優雅に唇の端を釣り上げる。 「波留樹の秘密についてだ」
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