第十五章 溺愛という名の病

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 ある時、男は政治家仲間から『お前の嫁はいつ後継ぎを産むのか』と訊ねられた。  せっかく築き上げた政治家としての地盤を、一代で終わらせるのはしのびない。それに、いずれ死ぬであろう自分と愛する妻の墓を守るため、男には子孫が必要だ。  この話を妻にすると、彼女は子どもを産みたがった。子どもが生まれればこの薄暗い屋敷の中にも新しい風が吹いてくれるだろうと――そして男の束縛も多少は弱まってくれるだろうと、彼女は無邪気に期待した。  ところが男は曖昧に笑うだけで答えない。  お前にはまだピンとこないかもしれないけど、現代の日本においても出産は十分死因になり得る。また、母体に重大な後遺症が残ったり、心身に消えない傷痕がつくこともある。  男は妻を愛していた。傷つけたくないと思った。まして、自分が子どもを望んだ結果、妻の身体に傷が残ったり、あるいは死んでしまったりしたら――二人の子どもをその手に抱く喜びより、愛する妻を失う恐怖の方が、男にとっては何百倍も耐えがたいことのように思えた。  だが妻は子を望んでいる。そして自分にも子が必要だ。  他所の女を抱くか? いや、そんなことはしない。なぜなら男は……繰り返すけど、この世でただひとり、妻だけを深く愛していたからね。  では、男はどうしたか?  婦人科の病気の治療と偽り、妻の身体から無断で卵子を摘出。自分の精子と受精させ、金で雇った代理母の胎内でそれを育てさせたんだ。  ……驚いた? 意味は、理解できる?  こうすれば確かに、妻にリスクを冒させないまま、自分と妻の子を手に入れることができる。  大した合理性だよね。吐きそう? はは、ごめんね。  さて、代理母の胎内で子どもは順調に育ち、妻がその存在をあずかり知らぬまま無事にこの世に誕生した。男の子だった。  男は屋敷の離れに人を雇い、秘密裏に子どもを育て始める。だが、口さがない家政婦たちにより、その存在はあっという間に妻の知るところとなる。  自らのまったく関与しないところで自分の血を引く子どもが生まれたと知り、妻は驚きのあまり半狂乱になった。なぜ事前に相談しなかったのかと、何を考えて勝手な行動をとったのかと、まくしたてるように男をなじった。  男は平然と答えた。 『驚かせてしまったのは申し訳ない。でも、俺の行動はすべてきみの幸せのためなんだ』  ……大丈夫? ついてこられてる?  まあ、紅茶でも飲みながら聞いていてよ。  男の考えは単純だ。二人の子がほしい。でも妻に産ませたくない。だから他の女を使った。たったそれだけのこと。  妻だって今は自分で産むという常識に囚われているが、時間が経てばわかるだろう。いつかはきっと夫の判断に感謝する日が来ると……そう思ったんだろうね。  妻には男の考えが理解できなかった。彼女は自分が世の中の多くの夫婦同様、当たり前のように愛し合い、当たり前のように子を授かり、当たり前のように育てていけると思っていたからだ。  夫のことがわからなくなり、妻は心を病んでいく。夫への恐怖と嫌悪でぐちゃぐちゃになった彼女は、とある方法で夫への復讐を企てる。
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