第十五章 溺愛という名の病

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 あるとき、いつものように遊ぶ二人の子どもの周辺に、見慣れない大人の男が数名近づいてきた。男たちは、当時政治家として悪名を上げていた父親から金をむしり取るため、身代金目的で弟を誘拐するつもりだった。  山百合の咲く公園の中を、二人は必死に逃げ惑う。もっとも、女の子の方は事情がまったくわからないから、突然追いかけっこが始まったくらいにしか思っていない。でも弟はそうじゃない。自分のせいで……いや、自分の父親のせいで、大好きなこの子まで危険な目に遭わせてしまっていると苦しんだ。  最終的に、小学校から帰る途中の兄が車からその姿を見つけ、誘拐事件は未遂に終わり男たちは逮捕された。でも弟は『自分が傍にいるとまた彼女を危険に晒してしまう』と考え、山百合の花を少女に渡し英語で永遠の別れを告げる。まあ、彼女は英語がわからないから、また遊ぼうねとにこにこ笑って、自分の持っていた山百合を代わりに弟に渡していたけどね。 『お前は、どれだけ葵に迷惑をかければ気が済むんだ!』  屋敷へ戻った弟を待っていたのは、父親による平手だった。弟が誘拐されそうになったと聞き、ただでさえ心を病んでいた母が過呼吸を起こしてしまっていたんだ。  父親は弟が大事に持ってきた山百合の花を奪い取り、かかとで何度も踏みつぶす。茎が折れ、蕾が潰れ、白い花弁が茶色く汚されていくのを見て、母が泣きながら父の足に縋りついて止めようとする。 『やめてください! 樹は何も悪くないじゃないですか! この花は……樹の初恋だったんですよ!?』  悲痛な叫びも父の耳には届かない。お前さえいなければ妻は傷つかずに済んだ。あの時だって。この時だって。お前さえいなければ。言葉を聞き取ることはできなくても、何を言われているかは理解できた。容赦なく注がれる怨嗟の言葉を、弟はそのまま繰り返す。お前さえいなければ。お前さえいなければ。 『お前さえいなければ、百合香が危ない思いをすることもなかったのに』  …………。  ぐちゃぐちゃに潰れた山百合を見下ろし、弟はついに発狂した。五歳児だよ? 大人の男に勝てるわけがない。でも戦うんだよ。飛びついて、ひっかいて、指をかみちぎろうとする。そして父も少しの躊躇もなく弟へ拳を振り上げる。  椅子が飛んで花瓶が割れた。鏡が倒れて破片が飛んだ。悲鳴をあげる母を無視して、父と弟は暴れ回る。  父は弟を『妻を傷つける存在』として、弟は父を『彼女を危険な目に遭わせた元凶』として、シャレにならないほど二人は純粋に憎しみあっていた。二人の原動力は同じだ。愛情だよ。好きな女への溺れるほどの愛が、あいつらを対等に狂気へと落とし込んだんだ。  父に掴みかかる弟を見たとき、兄は正直恐怖した。睨みあう父と弟の目がまったく同じものだったからだ。父が母に狂ったように、弟は山百合に狂っている。この二人は同じ生き物なのだと、兄はこのとき確信した。  父子の喧嘩は最終的に夫婦の離縁で幕を閉じた。父は絶望し、考え直すよう何度も母を説得したけど、母の決意は揺るがない。 『それがきみの幸せになるなら』  やがてすべてを諦めた父は、失意のままに愛する女に別れを告げた。結婚なんて紙切れ一枚。愛する女を繋ぎとめる鎖になんてならなかったわけだ。  こうして母と弟は家を出て、新たな姓とともに人生を歩み出す。  そして荒れ果てた屋敷には、父と兄とが残された。
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