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「樹くん」
「わっ」
タキシードの肩が跳ねあがり、私もあわせてびくっとしてしまう。
椅子に深く腰掛け、ひじ置きに頬杖をついた樹くんは、切れ長の瞳をまんまるにして私を見上げまばたきする。まるで夢でも見ていたみたいな、なんだか決まらないきょとん顔だ。
「なあに、こんな時にうたた寝してたの?」
「いや……まあ、そんなところかな」
「のん気っていうか、タフだよね。私なんてさっきからずっと緊張しっぱなしなのに」
ずるずると真っ白な裾を引きずり、私は樹くんの椅子に寄りかかる。裾の長いウェディングドレスは立つのも座るのも面倒だ。正直身体は疲れていたけど、後々のことを考えると結局は椅子に寄りかかる程度が最適解になってしまう。
「それは?」
樹くんの目線を受けて、私は彼に小さなカードを差し出した。
「桂さんから。電報だって」
「今どき電報か。ある意味、桂らしい」
招待状に『欠席』で返ってきたときは、仕方ないかなと諦めもした。でも、律儀に電報とお花まで贈ってくれる桂さん。やっぱり彼はとても真面目で、良い人なんだと実感する。
(桂さん、元気にしてるかな)
天使の微笑と持ち前の皮肉に遠い思いを馳せていると、ドレスの腰に腕が回ってそっと優しく抱き寄せられた。
立ち上がった樹くんが、むずがゆいほど優しい眼差しで私の姿を見つめている。
「どうしたの?」
「やっぱり可愛いと思って」
「前撮りの時にも一度着て見せたじゃない」
「そうだけど、何度見ても可愛いものは可愛いんだ」
綺麗に飾ってもらった耳に、触れるぎりぎりで止まる唇。
「こんなに可愛い百合香の姿を、誰にも見せたくないって気持ちと」
手袋に覆われた長い指が、腰のラインを艶やかになぞる。
「俺の百合香は可愛いだろって、見せびらかしたい気持ちがせめぎ合ってる」
「ねえ、そういうの、恥ずかしいんだけど」
「我慢してくれ。一生こうだから」
一生かぁ。これはこの先、大変な人生になりそうだ。
でもまあ、覚悟を決めたこと。それに今の私たちなら、きっと、上手くやっていける。
私が朗らかに笑っていると、目の前に樹くんの顔が来た。
腰をかがめ、目線を合わせ、樹くんは優しく微笑む。何より綺麗で何より落ち着く、そして何よりどきどきさせてくれる、私の大好きな人の笑顔。
「百合香」
顔を覆うレースのヴェールが、まぶたの上まで持ち上げられる。
近づく顔。陰る視界。薄く開いた唇が、吸い込まれるように近づいてくる――……
「こらこらこらこら! そういうの、ちゃんと観客の前でやりなさい!」
呆れたような椎名くんの声に、私と樹くんは同時に動きを止めた。壁に寄りかかり腕を組んだ椎名くんが、ふくれっ面でチャペルへ続く大扉を顎で指す。
私と樹くんは顔を見合わせ、どちらともなく笑いあう。椎名くんはふっと苦笑して、別の扉からチャペルの方へと戻っていく。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
樹くんが差し出した手へ、私もそっと手を重ねる。
握りあう指先の、布越しに感じるほのかな熱。私たちはこれから、ずっと隣を歩いていく。
視線を軽く持ち上げると、すぐ傍に樹くんの顔があった。柔らかく穏やかで溶けるような微笑みが、見ているだけで私に伝播し、自然と私の頬も緩む。
「百合香」
「うん」
「愛してる」
甘く囁くかすれ声。
自然と視線が唇へ吸い込まれて、私もまた溶けるように笑う。
「私も、愛してる」
樹くんが優しく目を細めると、それを合図にしたみたいに、私たちの前の重たい扉がベルの音ともに開いた。
『幸せでいるための秘密』 おわり
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