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ドキドキが止まらない。
亜希良くんは私の家に着くまで、ずっと無言だった。その横顔は少し憂いを帯びているように見えて、目が離せないくらい綺麗だった。
役を引き受けたことを後悔しているのかな。
きっと私とキスをするのが嫌なんだ。重荷なんだ。
亜希良くんが黙っているから、どんどん悪い方へ考えが傾いて行ってしまう。
私が亜希良くんを巻き込んだから、彼にこんな辛い思いをさせている。そう思うと悲しくなってきた。
これ以上、亜希良くんに負担をかけさせるわけにはいかない。
「亜希良くん」
玄関に入った時、私は覚悟を決めて、亜希良くんに声をかけた。
「私のせいで、ごめんね」
「お前のせいじゃないだろ。演劇部の奴ら、絶対俺たちをハメたんだ」
「私……劇、やめる」
亜希良くんが驚きの目を私に向けた。
「無責任って言われるかもしれないけど、亜希良くんが嫌なことはさせたくないから……一緒にやめるって言おう?」
妃崎先輩はきっと烈火の如く怒るだろう。
菊池先輩は多分諦めきれずにまた誘いに来るかもしれない。
北村先輩は金一封を残念がるくらい、かな?
とにかく、演劇部の人たち全員を敵に回すことになってしまうのは確実だ。
それでも、誰より大切なのは亜希良くんだから。
亜希良くんは少し悩んでいたようだったけど、やがて小さく頷いた。
「お前がやめたいって言うならそうすればいいと思う。あれだけ啖呵切っといて、ちょっと格好悪いけど」
「うん……」
「──やっぱり嫌だよな。たかが文化祭の芝居なんかでキスさせられるなんて」
亜希良くんは自虐めいた笑みを浮かべた。
「しかも相手が俺みたいな、ただの家政夫としか思っていない奴とじゃ……」
「うん……えっ?」
私は思わず聞き返した。
亜希良くんは真剣な顔つきだ。
「やっぱその方がお前のためだし、そうしよう」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「ん?」
亜希良くんは不思議そうに私を見下ろす。
「い、嫌なのは亜希良くんの方ですよね? 私なんか、ただのニセカノだし……だからキスしたくなくてあんなに怒ってたんじゃ」
「は? 何言ってんだよ。俺がキレたのはあいつらがまたムチャブリしてお前に無理をさせようとするから──」
「……無理じゃありません」
亜希良くんが言葉を失った。
ああ、どうしよう。今、すごく大変なことを言っちゃった気がする。
私は両手で顔を覆って下を向いた。
でも、もう言葉にしたことは取り消せない。
顔を覆ったまま、私は蚊の鳴くような声で呟いた。
「亜希良くんとキスするの……私は嫌じゃありません……」
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