仰げば尊し……?

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仰げば尊し……?

   チチチッ チチッ……  午前6時。静かな朝だ。新居に移ってから1年半が経つ。ご近所さんとも上手くいっているが、一つだけ今までと違うことがある。それは、ジェイと夫婦であるということを公言出来ないことだ。これは2人の誤算だった。  あの”場所”は特殊だったのだと実感する。あの状況下だからこそ、真実を明かすことが出来た。ここではそんな場がない。  だが、穏やかに暮らしたい2人はそれで新しい環境を荒立てたくなかった。 「いいのか? 異母兄弟ということにして」 「うん。その方がいいと思う。きっと楽だよ」 「分かった」  それで、ここでは異母兄弟ということになった。それほどお節介なご近所ではなく、みな親切だ。だから余計な『お見合い』的なお勧めは今後も来ないだろう。  なごみ亭最後のあの夜。R&Dの連中には、心底参った。「もう帰れ!」と何度言いかけたことか。そのたびにジェイに腕を引っ張られた。 「宴もたけなわ!」 と、哲平がやらかした。時間は11時半過ぎ。だいぶ減ったとはいえ、他のお客さんも結構いた。 「みなさん! このドロンしちゃう蓮ちゃんですが! 私たちの元上司なんです」 「おお!」  知ってるはずのお客さんまで声を上げる始末。それほどみんな酔っていた。 「職場で、ドロンされ」 「大変だったな!」 「堪ったもんじゃない!」  お客さんの変な合いの手が入る。 「そして、ここ、なごみ亭でドロンされる!」 「そりゃ、ひでぇや!」 「言ってやれ、言ってやれ!」 「けど! ……けど……」  哲平が顔に腕を当てて泣き出す。 (そんなタマじゃないだろうが!)と蓮は内心分かっている。 「泣けるよなぁ……」 「蓮ちゃん、あんたよくこの連中を見捨てられるなぁ」  お客さんまでもらい泣きしている、哲平のウソ泣きに。 「そこで、お願いがあります!」 「哲平、何する気だ!」 「黙れぇ、蓮ちゃんは黙ってろー」 「そーだ、そーだ」 「だぁまれ、だぁまれ、だぁまれ……」  哲平が両手を挙げて、店内を静かにさせる。  ここで忘れちゃいけない。この間、R&Dのメンバーはどうしていたかというと、わくわくしていた。哲平が何をやる気なのか、と。  そして、期待通り哲平は事を運んだ。 「みんなで『仰げば尊し』を合唱したい!」 「冗談じゃない!」  蓮は怒鳴ったが、盛り上がった店内の声に、自分の声がみんなの耳に届くわけもなく……  実に不愉快な顔でその大合唱を聞く羽目になった。 ――仰げば尊し わが師の恩  ……ここで半分以上が泣いている。 ――思えばいととし この年月  ……この辺りで一斉にティッシュが握られる。 ――今こそ 別れ目 いざさらば  ……ここでティッシュが大活躍! ――身を立て 名を上げ やよ励めよ  ……ここでは蓮ちゃんに向かって泣いているのではなく、自分の半生を振り返りつつある。 ――忘るる間ぞなき ゆく年月  ……一斉に声が湧く「忘れないぞぉ……」 ――今こそ 別れ目 いざさらば  ……大号泣……気がつけば匠ちゃんたちまで立ち上がって、泣きながら歌っていた…… 「皆さま! ありがとうございます、我らが蓮ちゃんに大拍手を!」 「いいぞ!」 「蓮ちゃん、忘れない、いつまでも」 「まだいて欲しいよぉ……」 「もっていかれたな、哲平に。あいつ、クチパクか」  花が笑う。 「そりゃ、哲平さんだもん……感謝してるんだよ。普通の絆じゃないんだからさ」  そう言われると蓮にもぐっと来るものがある。 (哲平との歴史は……)  そこで心の中なのに言葉が途絶えた。いろんなものが湧き上がる。間違って入社したバカたれ……連休明けには風邪が治っているのに出社し辛くてサボっているのを電話で怒鳴った……ジェイのためにどれだけ動いてくれたか……自分たちのことを驚くほどあっさりと受け入れ、助けてくれたこと……  そして、何よりもあの”空白のとき”を一緒に乗り越えた。 「そうだ、な……花……絆があった、俺たちには……おれ、たちには……」 「蓮ちゃん! 良かった、泣いてくれたぁ」 『やったねっ』と言わんばかりの哲平につい怒鳴ってしまった。 「俺の涙を返せっ!」43229d9f-8af6-4004-9ea5-fe75f12af591
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