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配られた『春乃薫』は、フルーティーな日本酒だった。飲み口も軽い。あっという間に空になってしまった。
「いい酒を飲ませてもらいました」
誰にともなくそう呟いて、はっとした。返事などあるはずもないのに。
「良かったです! そう言ってもらえて」
酒を注ぎに来た男性だ。
「広岡といいます。いつもジェイが世話になってありがとうございます。あいつ、俺たちの末っ子みたいなもんなんですよ。これからもよろしくお願いします」
しっかりと頭を下げられた。
「みなさん、ジェイを大事にしてるんですね」
「ええ。実の兄弟みたいに」
ジェイは腕相撲が終わった蓮のそばに行っている。
「身内がほとんどいないと聞いたが」
「だから俺たちが家族なんです」
佐藤さんの目からほろっと涙が落ちた。
「佐藤さん?」
「私は……ずっと1人でやってきました。寂しいとも思わなかった……いや違う、思わないようにして来たんだ。なのにそれに気づかされてしまった……これからどうしていけばいいのか」
浜田がそばに来る。
「佐藤さん、急には無理だろうけど、少しずつでいいから仲のいい関係になりたいです。蓮ちゃんとジェイにとって大事な人なら、俺たちにとっても大事です。俺ね、長いこと1人ぽっちだった。この中にいてもね。けど蓮ちゃんが俺を『弟だ』って言ってくれた……それから俺、1人じゃないです。このみんなが家族になった。馴れ合いじゃないです、叱咤する、激励し合う。この連中はいい加減を嫌う」
「けどね、そこがいいんですよ」
広岡がそう浜田の言葉を引き取った。
『春乃薫』が少し注がれる。透明で美しく薫り豊かな酒。注がれる量にまで思い遣りを感じる、『飲み潰れないように』。
「ありがとう。今日は……気持ちがいい。気持ちよく酔っていますよ」
自分の唇に笑みが浮かんでいるのを感じた。
ところで、テーブルではもう一つ対戦が残っていた。池沢戦だ。
「もうやらなくてもいいだろう! TOP争いには決着がついたんだから」
抗う池沢と、そうはいかない! と勝負を求める連中。その連中の中にありさが入っているから堪らない。
「あのね、負けるのはいいの。でも敵前逃亡は許せないわ、隆生ちゃん」
それで勝負することになってしまった。自分は万年3位か4位でいいのだ。哲平とそれなりにいい勝負を交わす、それだけで。化け物とやり合いたいわけじゃない。
だが、容赦なく『いやいやジャンケンをする2人』のうち1人が自分に向き合う。
「悪いな、池沢。もうやりたくはないんだが」
「さっさとケリつけてください。俺は平和に酒を飲みたいんですから」
花との勝負が終わったばかりということが池沢に対する屈辱的なハンデ。
「勝つなら今だぞ!」
哲平が根拠もなく言う。
「俺の無念、池沢さんにかかってるからね!」
「俺に託すな、花! みんな好き勝手ばっかり言いやがって」
手を組み合う。哲平が宣言する。
「レディ、GO!」
応援は必要なかった。する暇がなかった。面白くもなく蓮の勝ちだ。
「なんだよー、俺、池沢さんを見損なった!」
そうほざいた花はキツイ一発を頭に食らった。
「隆生ちゃんのこと、バカにしないでくんない?」
「冗談だって! 本気で殴ることないじゃん!」
「ありさちゃん! 私の花くんを叩かないで!」
「あら、真理恵ちゃん。あなたの宿六の口を塞いどいてくれる?」
一触即発。周りが囃し立てる。
「女王杯だ!」
もちろんありさが逃げるわけもなく、真理恵とありさの戦いが始まった。
「いいのか、マリエ」
「いいの。花くんの頭叩いたのをありさちゃんに謝ってもらうの」
「いいよ、そんなの」
「女の戦いに口出さないでね、花くん」
2人の女性の拳が合わさる。掛け声は哲平。
「レディ、GO!」
まるで蓮と花の勝負の再来だ。動かない。そのまま真ん中で固まっている。だがそれも少しずつ勝負がつき始める。
闘病生活を経たありさと現役合気道四段の真理恵。ついにありさの拳が沈んだ。
「しょうがないわね。約束だもの。こっちいらっしゃい、花」
ありさが清々しく笑って花を呼び寄せる。花はいやいやありさの前に出た。
「花くん。謝ってあげるわ。さっきは痛い目に遭わせてごめんなさいね。さぞ、痛かったでしょう。ほっほっほ」
「三途さんっ、それ、謝ってないっ」
「あぁら、ごめんなさいねぇ、花くん」
結果として、花はありさの嘲りの謝罪に負けたのだった。
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