春、来たり

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春、来たり

   入院は長引いた。少し良くなると不調になる。その繰り返しだった。担当医師が退院に首を縦に振らない。 「もう少し様子を見ましょう」  なにも起きて欲しくないから、医師がそう言うなら誰も文句など言わない。 「いい患者さんですよ、ご主人は。良くなろうとする決意がある。我慢し過ぎる傾向もありますがね。入院してから一度も『苦しい』『辛い』という言葉を聞いたことが無いんです」  医師の言葉に微笑む真理恵と花月。家族だから分かる意志の強さ。  退院の許可は容易に出なかったが、それでも花の状態は確実に快方へと向かっていた。病状が落ち着いてから、真理恵たちは自宅と病院を行き来するようになっていた。  ホールを車椅子で散歩をする。付添いは様々だ。家族だったり、R&Dの連中だったり。歩くのを忘れそうだ、と言う花のグチを笑って流す。 「この程度歩けなくてオフィスで動いてらんないっつーの」 「いっそのこと車椅子通勤にすればいいんじゃないの?」 「浜田……その言葉、忘れんなよ!」 「や、忘れて! 俺もう忘れたから」 「いや、後で手帳に書いとく!」  そうだ、もう花と笑い合うことが出来るのだ。そう思うだけで浜田は泣きそうになる。  たまに優作が来る。優作はずんずんと歩いてしまうので、なにも見れないと花が文句を言う。 「元気になったじゃねぇか」  そう口にはするが、自分を投げ飛ばしていた頃のあの花とは違う。車椅子を押しながらその細くなった首筋を見て、優作はぽたぽたと涙を落していた。 「俺の席、あるよね?」  今日は田中が車椅子を押している。 「さあな。今んとこ哲平がふんぞり返ってるよ」 「俺の仕事」 「それは翔が動いてる。花、仕事のことを考えるのはまだ早いぞ」  田中が危ぶむ、花の気持ちが急いていると。 「仕事は消えないんだ、出てくりゃいやでもお前の前にどっさり転がり込む。今は仕事のことを忘れてくれよ」 「分かってるけど……こんなに長く仕事から離れたこと無いからさ」  その声が少し寂しそうで。 「人生の中の休暇。昔蓮ちゃんが入院した時、お前人一倍心配したろ? 思い出せよ、あの時を」 「……そうだね」  田中は次の日メンバーに花の様子を伝えた。 「ナーバスになってるんだ。みんなも気をつけてやってくれ」  気が落ちると体調にも響く。蓮のあの入院の時によく分かったことだ。みんな努めて明るい話題を探した。 「お前さ、仕事のこと考えるなったって無理なんだろ?」  車椅子を押している哲平が言う。 「ん……」 「なら頼みがある。これ、極秘だ。漏らしたと分かれば俺の首が飛ぶ」 「なにさ」 「新人。データ、スマホに送る。いいか、急がない。気が向いた時にやってくれればいい。チーム分けを決めるのは3月頭だ。今は1月だろ? たった7人だけど癖が強い。誰に預けたらいいか、ちらっと考えてくれないか? 俺も考えるから」  これは哲平の気遣いだと思う。きっとチーム分けなどとっくに哲平の頭の中で出来上がっているに違いない。けれど楽しそうだ。 「ありがとう。考えてみるよ」 「ゆっくりでいいんだからな。それと誰にも見つからないこと。頼むから夜中寝ないで考えたりするのはやめてくれよ、俺が真理恵に殺されちまう」 「そうだね、ほんとに殺しそう」  哲平の渋い顔に、花は笑った。  退院は4月上旬と決まった。ここまで長かった。10月に倒れて、今は3月の終わり。  今では花は自分で歩いてホールを回る。いつも誰かが一緒だが、病院の中を歩く。あちこちに飾られている父の絵の前で立ち止まる。 (この絵……見たことある)  いつ頃だったか、どんな時だったか、そんなことを考える。そしてあの苦しかった闘病の日々から遠ざかっている今を静かに楽しむ。  
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