海へ

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   帰りのバスは旅行疲れを見せる子どもたちを除いて皆大はしゃぎだった。子どもたちはほとんどがすやすやと寝入っている。大人たちはこんな機会にはもう恵まれないかもしれない、という思いからか、お喋りをしたり子どもっぽくトランプをしたり恒例行事の「あっち向いてほい」をしたりと忙しい。  FGSの要望を受けて、このバスには本格的なカラオケが設置されている。みんなはなんとか不運を避けたくて話題を他に向けていたが、とうとう哲平が「カラオケやろうぜ!」という魔の言葉を口にした。 「せっかくいい気分なのに台無しになるのは勘弁!」 「そうだよ、カラオケするのは良くないよ!」  広岡が意味不明の抗議をする。みんなからもブーイング。けれど哲平はさっさとセッティングをしてしまった。 「子どもたちが寝てるから音量は下げとくな」  一応気遣いを見せる哲平。池沢がぼそっと言う。 「悪夢を見なきゃいいんだが」 「人数が多いから後奏カット! これならいいだろ?」 「自由参加で! 歌いたい人間だけが歌えばいい」  蓮が抵抗を試みる。 「いや、蓮ちゃんは歌わないと。残念ながら緑は無い! でも精一杯戦おう!」 「戦う意味が分からん。第一あっという間に東京に着くだろう?」  田中が正論を言う。 「夕方までこのバスでドライブしよう! 澤田、さっさと歌う順番のクジを作れ」  ドライブについてはまさなりさんが一も二も無く請け合ってしまった。  実はこの中にカラオケの悲惨さを知らない人間がいる。花月夫婦、花音、風花、なごみ亭の連中、そしてまさなりさん夫妻だ。 「俺、演歌しか歌えないけど」 「俺も」  源と伴が言う。 「大丈夫だ、田中さんも池沢さんも演歌だから」   哲平に言われてほっとした2人。人前で歌ったことなど無いが、一度カラオケで歌ってみたかった。  不幸なクジで、蓮は4番目を引き当てた。その5番目がなんと哲平だ。 「どんないやがらせだ、澤田!」 「俺のせいじゃないって! 蓮ちゃんのクジ運が無いんだって!」  せめてもの救いは、哲平の前だと言うことだ。きっと哲平の歌が上書きしてくれるに違いない。すぐに番が来てしまうから、蓮は必死に短い曲を探した。 「すげ! 蓮ちゃん、やる気満々だ! 負けてらんないな!」  哲平はなるべく長い曲を探す。  陽子が歌い、和田が歌い、リオが歌って蓮の番になってしまった。みんなが注目している、ただそれだけで物に動じない蓮は唯一の弱点にテンパってしまった。早く終わりたくて焦るあまりに出だしを間違い、ワンフレーズ早く飛び出してしまった。途端に爆笑が起きる。ゆめさんの目が大きく丸くなる。花月たちにしてみれば『あの立派な蓮おじさん』が……  なごみ亭の連中は、なぜか下を向いてしまっている。ちゃんとメロディを聞こうとして間が空いてしまい、今度は波に乗り損ねる。おまけに歌詞を間違えてしまった。こうなればヤケクソだ、音が外れたままメロディもそっちのけで早口で歌い切ってしまった。  ジェイが小さな、と言っても周りにはしっかり聞こえてしまう声で蓮に囁いた。 「今日は上手く行かなかったね。次はきっと大丈夫だよ」  途端にまた大爆笑だ。完全に不貞腐れた蓮はジェイに返事をせず、ウィスキーを二杯煽った。  ありさが涙を流しながら大声を出した。 「久しぶりだわ、蓮ちゃんの歌! 一段と激しくなったわね!」  だが、その笑いも哲平が歌い出すまでだった。幸いなことに花月も花音もゆめさんのピアノの指導があって音痴の域を脱していた。だから久しぶりの哲平の堂々とした外れっぷりに耳を塞ぎそうになった。 「ひどい……」  風花が一言呟き、声は聞こえなかったがその唇の(かたど)った言葉を見て大爆笑が起きる。もうメンバーたちは哲平の歌で笑うより、その歌に対する反応を見て笑っていた。  哲平のお陰で蓮の歌は跡形もなくさっぱりと宗田家の記憶から拭い去られていた。あまりの見事な外れっぷりに、なんとゆめさんがころころと笑い出す。まさなりさんも吹き出すのを堪えていた。みんなにとって幸いなことに、運転手は急ブレーキを踏みそうになるのを危ないところで留まった。  カラオケがひと段落してようやく東京へ。名残惜しいが誰もが家路を辿る。こうやって少しの間でも家を空けることが生活のスパイスになるのだ。  
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