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坂の上の公園には、さくらんぼの木がある。その横を通って、細っこい石の階段を上って行くと、そのうち、ぽっかりと宙に浮かんだようにつきだした空き地がある。ちょっとした植木と、座布団みたいな岩があるから、〈座布団基地〉。ぼくの秘密基地だった。
「もしもし――……」
ぼくはドキリとした。座布団基地の真ん中に座っている大人がいる。その人は通話をしているらしかった。
「……だから、ウツだよ。ウツ」
ウツ、という変わった名前の人は、困ったように笑っていた。ぼくは階段の影から、その人をじぃっと見つめた。黒いカッターシャツを着ていて、肩ぐらいの髪は、ヘアゴムで結んでいる。けれど、働いているときの大人みたいなきっちりした結びかたはしていなくて、たとえば、お母さんが料理をするときに、ちゃちゃっと結んだみたいな、そんなかんじだった。通話はすぐに終わった。そしてぼくもすぐに見つかった。
「君は?」
ぼくはどきりとした。不思議な声の人だった。お母さんの高い声でも、お父さんの太い声とも違う。どうしてかわからないけれど、洗いたてのタオルケットをなでたときを思い出した。しずかな話しかただった。
「あれ、小学校の子かな。授業は?」
また、ドキリとした。抱えていたプールバッグをぎゅっと握ってうつむく。喉がぐぅっとつっぱって、くちびるをむすんだ。怒られる。こんな時間に、学校をサボるなんて、って。
ぼくは泣きそうになった。
ちゃんと足は地面の上にあるのに、プールで足がつかなくなったときみたいに、足もとがわからなくなった。息つぎがうまくできなくて、なさけなくひっくり返って、ツンとする水をいっぱいに飲んだときと同じだ。くもりの日の水は冷たい。
みんな、なんてことない顔でプールにとびこむのに、ぼくはいつまでたっても、ずっとずっと冷たい水のなかで震えているから。みんなに笑われて、先生に怒られて。
笛の音と一緒に泳ぎ始めても、ぼくはみんなの倍以上の時間がかかる。どれだけ不格好な息つぎをくりかえしても、まだ向こうにつかなくて。もう泣いているのかもわからなくなりながら、分厚くて冷たい水の中を必死にかきわける。けれど、水は透明だから、みんなの笑い声も、先生の怒声も、ぼくに届ける。水が濁っていく。みんなが、たくさん嗤うから。先生が、たくさん怒るから。ぼくが濁っていく。
だって、引っ越す前は学校にプールなんてなかった。
だって、引っ越す前はお母さんもいっぱい笑ってて。
だって、だってだってだって――――っ!
「逃げてきたの?」
ウツさんは優しく笑った。
「わたしもそう。逃げてきた」
くもり空の灰色。コンクリートの灰色。アスファルトの灰色。
黒いカッターシャツに、真っ黒な髪。目元にかかる前髪から見える、黒色の瞳。
白くて、細い手首。
薄いピンク色のくちびるが、シワひとつなく微笑んだ。
「一緒だね」
Gray Lyrics:episode1『大人を辞めたおとな』
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