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Day 1 : 1
「イチ、お前やっぱり寝不足やろ」
僕の高校時代の先輩、東俊哉が僕の顔を覗き込んでそう訊いたのは、二十畳近い広さの日本間で、法事でしかお目にかからないようなふかふかの巨大座布団に腰を落ち着け、恵美さんが緑茶の入った茶碗を茶托つきで座卓に置き、僕が立派な木彫りの欄間を見あげて、そこで羽ばたく鳥を、あれは鶴か、それともこれが鳳凰というものなのかとぼんやり考えている時だった。
「へ……」
あわてて、相変わらず白磁の頬に切長の目、という美形の先輩の顔に視線を移した。
あの事件、つまり、少しでも自分の好みに合致する要素を持つ女性に言い寄られれば、ついつい『いけないおねえさん』にまで慈悲を垂れてしまうという先輩の悪癖と、音楽的に巨大な壁に頭頂部から正面衝突していた当時の精神状態が相まって、先輩自らが自身のピアニスト人生にピリオドを打つという暴挙に出た、去年、1983年の11月3日に起きたあの事件の直後はどうだったか知らないが、今は信じられないくらいに至極平和な顔をしている。
由恵さん、先輩のお母さんが言ったとおりだ。僕には、先輩が大阪で仕事をしていた頃より健康的な顔色に見えた。とはいえ、僕の知っている大阪にいたあいだの先輩の姿といえば、コンサートのチラシの写真と、あの強烈な一日だけだったのだけれど。
「お前、今日は口が開いてる時間、長い。緊張感が足らん。弛緩してる、ずっと」
「あ、ああ……」
そりゃそうだろう、と思う。
「いつもより早起きして、そんで長旅やもんね。疲れて当然やん」
座卓の向こう側にジーンズの脚を崩して座りながら、恵美さんがくっきり二重の目尻を下げて笑いかけてくる。
僕の口があんぐり開く第一の原因はあなたですよ、と言いたくなった。
いや、最初の『あんぐり』は松江駅だった。意識して口を閉じながら考える。
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