36人が本棚に入れています
本棚に追加
「いやいや、これは……、かなり危険ですよ」
「だから面白いんや」
「いや、でも、フォーレの『ドリー』だったら……、あ、ブラームスでもワルツなら、ずっと合わせやすいし」
「わかってへんなあ。あのな、いちばんリスクの高いのが、いちばん面白いの。そう思わん? 俺とイチがどんだけ合わんか、これではっきりするやろ。あなたとわたし、一心同体だと信じていたのに、やっぱり、あーやっぱり他人同士だったのねーえ、って。まあ、まず間違いなく大爆笑やろな。おもろい。絶対に、おもろい」
言いながら先輩はピアノの蓋を開け、フェルトの鍵盤カバーを取った。
忘れていた。先輩はこういう性格だった。
ため息をつきながら何気なく楽譜を開いて、目が動かせなくなった。同時に、見てはいけないものを見てしまったようなうしろめたさで胸が痛む。
左手のパートにだけ、いくつか指番号が濃い鉛筆で書き込まれている。確認しなくともわかる。『4』の数字はどこにもない。
東俊哉ほどの実力をもってすれば、連弾用のシンプルな楽譜に指番号の指定など必要ないはずだ。何度か聴いたことのある曲ばかりだから、初見でも充分に弾ける。
練習したんだ。僕と連弾するために練習し、左4の指を使わずに演奏できるように、楽譜に書き込んだ。
そうか。ならば、僕だって真剣にお相手いたそうじゃないか。
ピアノの前には、背もたれのついた椅子が2脚、用意されていた。
「ぐだぐだになっても知りませんよ」
楽譜を譜面台に置き、左側のセコンドの椅子の高さを調節した。
「ぐだぐだ、結構、大歓迎」
ピアノ1台をふたりで演奏する連弾の場合、主にメロディーを弾く高音部の奏者を『プリモ』、伴奏が大部分を占める低音部を担当する人を『セコンド』と呼ぶ。
先輩はさっさと右側のプリモの椅子に座って楽譜をめくっている。
最初のコメントを投稿しよう!