33人が本棚に入れています
本棚に追加
/80ページ
「うわあー、やっと会えたあ。ホンモノのイチローくんやあ。トシからイチローくんの話、いっぱい聞いたんよ。もう何回もおんなじ話するから、やっぱり脳のどこかに障害が出たかと思ったわ。嬉しいわあ。イチローくんやあ。ほんまに来てくれた」
あの時間に松江駅にいた人全員に僕の名前が知られてしまったことは、火を見るより明らかだ。
ふたりのはしゃぎっぷりに圧されて、僕はどうにか、
「西と東、ですか」と言うのがやっとだった。
先輩は眉を寄せて、
「お前も普通のことしか言わんな」と、僕が肩から下げているスポーツバッグに手をかけた。
思わず先輩のその左手に目を遣ってしまい、あわてて逸らした。
「イチ・・」
耳元のささやきに目をあげると、バッグを右手に持ち替えた先輩が僕の目の前で左手を2回ほどにぎにぎと結んで開き、優しく笑った。
第一と第二関節のあいだに不自然な太く赤い筋のある薬指が少しだけ遅れるように感じたが、日常生活に不自由はないという医者の言葉は本当だったようだ。
でもピアノの打鍵となると話は違う。先輩の左4の指は、ほかの9本の指と同じ音を出すことはできない。あの野太い男性的なラフマニノフがこの手で奏でられることはもうない。
哀しみが、瞬間、旋風のように僕を襲う。
「エミちゃん、先に車、行ってて」
「オッケー」
恵美さんがくるりと背を見せ、小さなロータリーに停めた車へと走っていった。すぐうしろで、今まさに駐車しようとしている軽トラックに向かって「あー、おじさーん、すいませーん。今、出しまーす」などと叫んでいる。
「エミちゃん・・、ですか」
先輩は『エ』にアクセントをつけず、平板な呼び方をした。
「おう、エミちゃん・・。意外やったんやろ」
「え・・」
「顔に書いてあるわ。なんでこういうタイプ、って」
「あ、いや・・、あの・・」
先輩は楽しそうに笑ったが、僕は図星を指されて言葉を失っていた。
苦しまぎれに駅舎の外に目を移したら、予想したよりずっと遠くまで見渡せて、驚きで足がすくんでしまった。大阪でいつも見ている空より何倍も広い。薄曇りの空をきれいだと感じたのは初めてだった。
最初のコメントを投稿しよう!