Day 1 : 1

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 思い立ったが吉日で、松江市内の新築マンションを購入し、夫婦ふたりで引っ越ししたはいいが、この豪邸をどうするかで頭を悩ませていた矢先、先輩が大阪で『事件』を起こした。 「完全に自作自演やけどな」  あっけらかんと言う先輩を、恵美さんは横目でじろりと睨んだ。  あれがなければ恵美さんは今ここにはいない。トシには悪いけど、わたしにはかえってよかった。恵美さんならそんなふうに言いそうだ。  でも、先輩の口から初めて聞くあの日のことは、僕の心を激しく揺さぶった。通い馴れた道のように、何百回めかの喪失感に襲われる。しかも今日、僕はあの日以来、初めて先輩に会っている。本人を目の前にすると、あの背骨を貫くような激しい、それでいて全身が包み込まれるような音のラフマニノフを、もう一度聴きたいと強く願ってしまう。  世界最大のダイヤ『アフリカの星』。死んでしまった恋人の心。そんな決して手に入れることのできないものの比喩が浮かぶ。でも僕が東俊哉のラフマニノフに対して抱く気持ちは、そういうものとは少し違う。  弾けよ、と思ってしまう。弾けるだろう、といらだつ。先輩が絶対に弾かないことがわかっているから、もどかしい。 「渡りに船……って、お母さんが言ってました」  先輩とそっくりな由恵さんの顔とともに、あの事件直後の感情の記憶が蘇り、意図せずして湿っぽい声になってしまった。  だが当事者である先輩は、あくまでもドライな口調を崩さなかった。もう自分なりに心の整理をつけているのだろう。そして、僕の気分が沈まないように気を遣ってくれてもいるのだろう。やっぱり先輩はどこまでも優しい。 「そう、そのとおり。母親はあの直後から、俺をこっちにやることを考えてたみたい。一時的にでもな。それで伯母ちゃんに相談したら、パクッと向こうから食いついた」
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