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伊左衛門は首を捻りながら身を起こした。明け方の浜でのひと仕事からは、まだ幾らも時が経っていない。深い眠りの底にいたはずなのに、なぜ目が覚めたのか。
理由はすぐに知れた。おもてで六歳の愛娘の語る声が、閉ざした戸を越えて聞こえるから。
ではなく。
薄い戸板の向こう側に、ただならぬ気配を感じたからである。殺気ではない。娘の声も明るい。修業を積んだ伊左衛門には、気配の正体に心当たりがあった。
強い者だけが放つ波動。
師匠。戦で名を馳せた武者。人を、容易に殺すことができる腕前を備えた者。
彼らと対峙したとき、伊左衛門は息苦しいまでの圧を感じたものだ。
安普請の長屋とはいえ、戸越しに部屋奥まで圧を送り込むとは尋常ではない。気がついたからには知らぬふりもできぬので、おもてに出ると決めた。
一瞬、刀を差すか否かを迷ったが、戸の先に立つ者を刺激してはいけないと判断し、あえて丸腰を選んだ。
「お父、早いな」
戸板をすべらせてすぐ、戸のわきに置いた縁台より、娘が無邪気な笑顔を見せた。手には団子の串。梅雨明けの朝が、今日はやけに冷える。
娘と団子の皿をはさみ、老婆が縁台に座っていた。
知らぬ顔だ。街の者であれば見覚えがあるだろうに、まるで記憶にかすらない。手甲と脚絆を締めていることから、旅の者だと察せられた。
この者からは、いささかの圧もない。もう少し離れたところ、縁台の先に立てた幟のあたりに圧の主はいる。
老婆に目を向けるふりをし、伊左衛門は主の姿を盗み見た。
背が高い。頭が軒先にあたりそうだ。黒小袖に錫杖を立てた姿は、一見若い雲水。しかし、網代傘が背中にまわり、露わとなった髪の形は女のものだった。至極短い。肩にかかる寸前で断ち切られている。
柔らかさの一切を削いだ顔立ちだが、やはり女に見える。幟をながめる切れ長の目が、途轍もなく冷たい。伊左衛門は無意識のうちに息を詰めていた。
女には、隙がまったくなかった。団子の串を唇に当てる一方で、いつでも錫杖が振れるよう、肩、腰、膝。要所の力が抜けている。肘から先がしなやかで長い。あの腕で剣を振れば、間合いを詰める間もなく真二つにされる。
伊左衛門は女の腕前を値踏み、明らかに自分よりも強いと判断した。
こやつ、もしかすると。
頭の芯に不吉な思いがわいた途端、胸が苦しくなった。
いや、まさか。違うだろう。なぜ、老婆といる。金次第でどんな仕事でも請け負うと聞いたが、年寄りとの旅が仕事とも思えぬ。
考えにふける男を現実に引き戻したのは、しわがれた声だった。
「馳走になったの。ありがたいこって。ところでお侍。あの幟の『腕、貸しつかまつる』とは、なんじゃ」
団子の串を皿に置いた老婆が、伊左衛門に生真面目な顔を見せた。
「ああ、手間仕事の万屋みたいなものだ。娘は商家や長屋のおかみさんの手伝い。俺は男手の必要な仕事をする。今朝がたも、漁師にまじり網を引いた」
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