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Damage
自宅マンションの敷地に入って、あれ、と思った。
「知希?」
声をかけると、びくりと振り返った。
その顔に違和感を覚えた。
「あ…あの…、えっと…」
目を泳がせながらしどろもどろに言う様が、何だか痛々しい。
「…もしかして、昼の事?」
「うん…」
やっぱり気にしてたか。それにしても…。
「そっか…。とりあえず寄ってくだろ?チャリ停めてくるから。お前はあっちね」
先日来た時にも案内した来客用の駐輪場を指差すと、知希は小さく頷いて自転車を押して行った。
その背中がやけに儚い。
昼の事を話しに来ただけ、か?
それだけじゃない気がする。
急いで自転車を停めて知希の元へ戻った。
「知希の事だから気にしてるんじゃないかとは思ってたけど。…まあ、うちで話そう、暑いし」
肩を抱きたかったけれど、軽く背中に触れるだけにした。
俯きがちの知希の様子は、まるでバランスの悪い積み木のようだった。
いつ崩れてもおかしくない、そんな印象。
何があった?
エレベーターを待つ間に、流れる汗を拭いてやった。
今日も別に嫌がる様子はなくて少しホッとする。
「お前今日も汗だくだな」
努めて普段通りに振る舞う。
それで知希がいつもの知希に戻ればいいのにと思った。
でも戻らない。
ほんの少し笑ったけれど、目線を上げない。
「…昼休みの事だけどさ」
家の鍵を開けながら、なるべく明るいトーンで話しかける。
ドアを開けて、知希の背中を軽く押して中に招き入れた。
「お前は何も悪くないし、俺が勝手に怒ってただけだから」
スリッパを出してやりながら、ふと下から見上げた知希の目が…赤い?
「…うん、…でも…」
僅かに掠れた声で知希が言う。
「オレ…、桐人が嫌そうにしてるのに、みんなを止めなかった。だから、…ごめん、桐人」
普段元気な分、余計に胸が痛くなる。
「いや、ほんと、大丈夫だから。とりあえずこっち来て座ろう、な?」
そう言って、今度こそ肩を抱いてリビングに連れて来てソファに座らせた。
「何か飲むか?」
隣に座って訊くと、知希は顔を伏せて首を振った。
相変わらず、目線を上げない。
自分の目が赤いの、気付いてんのか?
だとしたら、可能性として1番高いのは、泣いてた、という事になる。
なんで?
教室で別れてからうちに来るまでに何があったんだ?
何があったのか、と訊いていいのか分からない。
知希は俺に隠そうとしているように思える。
でも、本当に隠すつもりなら、うちに来なければいいのだ。
電話でもいいし、普段通りメッセージのやり取りをしてもいい。
なのにわざわざ、うちまで来ている。
「…何か、あった?」
ぴくり、と知希の肩が揺れた。
少し躊躇うように、唇が動いた。
「…邦貴が、桐人に謝っといてって、言ったんだけどさ…」
「へぇ…」
それは、意外だな。そっちこそ何があったのか気になる。
「…その前に、邦貴に怒られた。…なんでお前が謝りに行くんだって」
「え?」
不満気に唇を歪めながら言う横顔。
「手首ガッて掴まれて、痕も付いて。もう消えたけど」
「お前それ…」
痕が付く程ってどんな力だよ。
華奢とは言わないが、俺や黒田と比べれば細い知希の手首。
その手首をさすっている手だって、俺たちより一回り小さい。
背筋を冷たいものがぞわりと這い下りた。
「なんであんなに怒ってたんだろ、邦貴。痛いし、あんな邦貴見た事なくて怖かった」
それは、俺のせいだ。
俺があいつを追い詰めたから。
でも俺だって必死なんだ。あいつの気持ちなんて考えていられない。
だけどそれで知希に怖い思いをさせてしまっていたとは…。
どうすればいい。
知希にまた嫌な思いはさせたくない。
俺が知希から離れれば黒田は安定するだろう。
そうすれば知希が怖い思いをする事はなくなると思う。
でも。
それは無理な相談だ。そんな事はできない。
黒田の気持ちは痛い程解るけれど、俺だって知希が欲しいんだ。
フラれた訳でもないのに離れられる訳が…。
ふと、浮かんだ考え。
いや、でも…、これは…。
嫌な感じの動悸がしてくる。
手のひらがじんわりと汗をかいてくるのに冷たい。
…俺が、フラれてやればいい、という事か…?
知希に、俺はお前が好きなんだと、告白してしまう。
お前が「お兄ちゃん」だと思っていた俺は、お前を弟だなんて思ってなかったよと教えてやれば、知希の方から離れていくだろう。
でもそれは、自分のダメージがデカ過ぎる。
だけど…。
知希の、赤くなった目。
怖かったという言葉。
マンションの前に立っているのを見た時から、いつもと様子が違うと思っていた。
あんなに萎れる程の怖い思いを、またさせる可能性を残しておくのか?
告白、まではせずに、上手く離れてやればいいのかもしれない。
でも俺はそんなに器用じゃない。
膝の上でぐっと拳を握った。
優先順位を考えろ。
1番はなんだ。
1番は…。
「知希、ちょっと聞いてもらってもいい?」
言葉を発するのがこんなに苦痛だと思ったのは、初めてだった。
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