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マッチョと私の過ごし方
その奇妙なお店は、さびれた雑居ビルの一階にあった。
『レンタルマッチョ ~筋肉妖精~』
なんで私はこんな怪しいお店の前に立っているのだろう。
本当に、どうかしていたんだと思う。
道ばたで見かけた矢印にフラフラと誘導されてしまう人なんて、きっとロクなものじゃない。よほど好奇心が旺盛なのか、自分の現状がイヤになってしまうほどクタクタな人間くらいだろう。
私は後者だ。入社三年目、仕事にも職場にも慣れてきたと思った矢先、とんだ伏兵が私の前に立ちふさがった。いわゆるお局様である。彼女は連日、私のミスを見つけては長い時間叱りつける。
「こんな気持ちで家に帰りたくない」
きらびやかなネオンから逃げるように、一本の路地を左に曲がった。ふと、何かが目に留まる。
「楽園まで、二百メートル?」
その看板は汚れていて、上のほうを読むことは出来なかった。私は矢印に誘われるように、暗い道を歩く。そして見つけたのだ、このお店を。
『レンタルマッチョ ~筋肉妖精~』
マッチョを、レンタル。意味がわからない。ううん、文字が示している意味は多分、わかってる。でもそれが、皆目見当がつかなかった。
「いらっしゃいませー!」
突然後ろから野太い声をかけられた。振り返った先には、白髪のナイスミドルが黒のベストに黒のビキニパンツでポーズをとっていた。
「私この店のオーナーで筋骨隆と申します」
喋りながらもうごめく筋肉。ネオンライトに照らされた姿はまさに非日常な世界――。
「一名様ごあんなーい!」
「あの私帰りま……」
「はいよろこんでー!」
オーナーの声に店のドアが勝手にオープン。その先にはめくるめくマッチョの筋肉ワールド。
前門のマッチョ、後門のマッチョ。
路地裏に求めた癒しとは似ても似つかぬ幻想空間に、私は軽くめまいを覚えた。
「当店では厳選されたマッチョの」
「私! 帰ります!」
「レンタルを行っておりまして」
「聞けよ人の話」
延々と続くマッチョの説明。私は流されるままに興味のない話を聞かされる。これでは仕事の時と同じだ。涙ぐんだ私に、一人のマッチョがそっと何かを差し出した。
「当店の名刺です、どうぞ!」
あ、そこハンカチじゃないんだ。
「私、帰ります。マッチョ、好みじゃないんで」
小走りに駆け出した私の背中を、オーナーの歌うような宣伝文句が追いかけてきた。
「今だけマッチョお試し、無料レンタル三日間!」
今だけ。無料。
そんなフレーズに足を止めてしまう貧乏OLの性が憎い。マッチョ、無料でもいらないのに。でもマッチョを借りたら、何か変わるかな?
「さあ、貴方は誰を選ぶ!?」
広げられたカタログ、居並ぶマッチョ。
せめて少しでもマイルドな人でお願いしよう。
「この人で……」
「バルク肉山君、ご指名でーす!」
「はーい!」
颯爽と駆け寄ってくる、短髪のナイスマッチョ。
「バルク肉山、二十歳! 三日間よろしくお願いします!」
意識が遠のくのをなんとかこらえて、私は肉山君と家路につくことになった。
「レンタルって、家までついてくるの?」
「はい! 三日間は貴方様のしもべですから」
私の問いかけに、肉山君は白い歯を輝かせた。ピチピチのTシャツにハーフパンツの出立が秋の街並みに浮いている。改札を通りホームに降りた。肉山君もしっかりついてくる。ホームは帰宅ラッシュで混雑していた。今日も満員電車かぁ。
私のため息に応えるように、人を詰め込んだ電車がやってくる。
「この電車に乗るんですか?」
「ええ」
「ウィー!」
威勢よく声をあげた肉山君が筋肉を強調したポーズで電車の入り口に歩み寄っていく。圧倒的迫力、モーゼの奇跡のごとく割れる人波。
「開きましたぜ小山さん!」
「名前を呼ばないで……」
もうこの時間の電車は使えないかもしれない。
発車のベルがなり、駆け込み乗車でさらに車内の人口密度が増していく。その時――
「マッスル・サークル!」
肉山君が両腕で円を描くポーズをとった。その円の中心に、私がいる。
「お守りします!」
うわぁ、超恥ずかしい。
視線が痛いし「うわぁ」とか「何あれ?」と囁かれる声もつらい。もう許して欲しい。そんな気持ちで顔をあげると肉山君が暑い車内で汗をかきながら、それでも私を守ってくれていた。
……ちょっと嬉しいかも。でも、彼の視線は私ではなくまっすぐ外に向けられていた。
視線の先では、外の暗闇で電車の窓が鏡のように車内を映し出している。肉山君が、うっとりとした顔で自分の筋肉に見入っていた。
「……嬉しいと思った私がバカだった」
いつもより長く感じた電車を、肉山君を前にして降りる。駅から歩いて二十分程の所に、私が住んでいるアパートがある。
「今日はここまででいいから」
「三日間は家の中でもお供します!」
「お断りします」
彼をおいて二階の部屋に入った。冷蔵庫を開けようとキッチンに行くと、廊下に面した窓から何やら男性の吐息が聞こえた。
「何? 変質者?」
そっとキッチンの小窓を開けると、私の部屋の前で黙々と腕立て伏せをする肉山君の姿が。再びめまいを覚えてふらつく脚で、どうにか玄関まで歩いてドアを開けた。
「……何をしてるの?」
「腕立て伏せを」
「なんでここで腕立て伏せを?」
「小山さんを三日間お守りするには、ここが一番かなと」
歯を輝かせて笑う肉山君。とにかく、この状況はまずい。誰かに見られたらなんて説明していいのかさえわからない状況だ。
「もういいから、あがって」
「お邪魔しまーす」
丁寧に靴をそろえて家にあがった肉山君が、早速部屋の隅に置かれた鏡に近づいていった。そしておもむろに掛け声とともにポーズをとり始める。
「……お風呂入ってくるから、大人しくしていてね」
疲れた。いつも以上の疲労を抱えてシャワーを浴びる。久しぶりに家にあげた男が、ナルシストのマッチョだなんて。
「私、何やってんだろ……」
呟いた声は、バスルームにむなしく反響した。
お風呂を終え髪を乾かして部屋に戻ると、さっきと変わらぬ光景があった。肉山君はずいぶん自分の筋肉にご執心らしい。
私がスキンケアを一通り終えるころには、時計の針が十二時を指していた。
「悪いけど肉山君、クッション使って寝てね」
「了解でっす!」
肉山君にタオルケットを二枚渡してベッドに横たわった。すぐ近くに異性が寝ていると思うと、電気を消すことが少々躊躇われる。
「小山さん! 電気、つけたまま寝る派ですか?」
「違うけど……」
「では。おやすみなさいませ」
私の返事を聞くと、肉山君がささっと電気を消してしまった。
落ち着かない。このままで眠れるのだろうか。何度目かの寝返りをうったとき、スッと肉山君が立ち上がる気配がした。
ゆっくりと足音が近づいてくる。まさか――
「眠れない小山さんのために、羊を数えます!」
「はい!?」
「羊がいっぴーき! 羊がにひーき!」
真っ暗な部屋の中で、肉山君がスクワットを開始した。マッチョは羊を数えるときも筋肉を鍛えるの……? 暑苦しい息づかいと羊の群れの中で、私は五十七匹目の羊を聞きながら眠りに落ちていった。
「おはようございます!」
翌朝目が覚めると肉山君はすでに朝食の準備を整えていた。トーストに目玉焼き、スープにウインナー。私が贅沢な朝食を取って出勤のため着替えている間、彼は洗面所でポージングをしていた。
予想以上に、細やかな気配りをしてくれる。綺麗に畳まれたタオルケットを見て、私はそんなことを思いながら家を出た。
肉山君もついてくる。朝の通勤ラッシュもなんのその。
「マッスルサークル!」
二回目の筋肉バリアは、一回目よりも恥ずかしさを軽減する……訳はなく、私は筋肉の円陣の中で明日は電車を一本ずらす決心をした。
電車を降りて、マッチョに見送らせて私は会社へ歩きだした。今日もお局様は私の服装から仕事内容まで、ネチネチと小言を浴びせ続ける。
だけど私は、マッチョと過ごす日々をどうしたものかという問題で頭がいっぱい。「もっと力をつけなさい」と言われてもそれって筋肉かな、とか思っちゃうあたり私もヤバイかもしれない。
仕事を終えて会社を出た時のは、夜の八時を回っていた。不意に赤ら顔の男性が数人、私の前で立ち止まった。
「お姉さん今帰り?」
ナンパだ。しかも酒臭くって強引ときている、最悪だ。私は彼らを無視して、隙間をすり抜けるように歩きだした。酔っ払いの汗ばんだ不快な手が、私の手首を掴む。
「おい、待てよ」
「離してよ、酔っ払い!」
背の高い男に囲まれて、私は苛立ちを超える恐怖に包まれた。男の影が迫ってくる。でも、その奥からもっと大きな影。あれは――
「マッスル! エスコート!」
「な、なんだお前は!?」
「レンタルマッチョ、バルク肉山!」
男たちに向かってポーズを決める肉山君。突然現れたマッチョに男たちの動きが止まる。肉山君は彼らをかき分けて私の前にやってくると、優しく手を引いてくれた。
「小山さん、残業お疲れさマッスル!」
微笑んだ肉山君。私は逃げていく男たちを尻目に彼と駅まで歩いた。私はすっかりマッチョを見直して、それ以上に肉山君に感謝した。
「悔しいけど、見直した」
家に帰り、姿見に向かってポージングしている肉山君に私は声をかけた。
「ほんとですか!?」
「うん、カッコよかった」
「ですよね! やっぱりこのポーズ最高っすよね!」
肩と胸の筋肉を強調しながら肉山君の笑顔が弾ける。違う、そういう意味じゃない。だけど、直接言葉を伝えるのは恥ずかしい。
「今日は疲れちゃった。もう寝よっか」
「羊、数えますか!?」
「ぷっ、また? じゃあ、お願いしようかな」
薄暗い部屋の中を、肉山君の声と羊たちが駆け回る。元気の良い羊が三十匹に達する前に、私は穏やかな気持ちで眠りについた。
翌朝。肉山君はベッドでゴロゴロする私をよそに、昨日と同じ時間に起きて朝ご飯を作っていた。目を覚ますとエプロンをつけたマッチョの後ろ姿。
「今日はレンタル最終日なんで、腕によりをかけてご飯を作りますから!」
ああそうか。彼のレンタル期間は三日間だっけ。
「今日はお休みですよね? 何かしますか?」
「えっ。じゃあ、部屋の模様替え」
「かしこまりました!」
肉山君の手際は見事なものだった。私があれはこっち、それはあっちと指示すると、テキパキと荷物を運んでいく。さすがのパワーである。
自分なら夕方までかかる模様替えも、お昼前にはほとんど片付いていた。
「お疲れ様。掃除機は私がかけるから、ゆっくりしてて」
「ありがとうございます。ふん!」
「好きね、姿見」
お昼ご飯を挟んで、彼の練習は夕方まで続いていた。
「筋肉ってそんなにいい?」
肉山君を眺めながら、私は何気なく聞いてみた。
「最高です! 美しいし健康的だし実用的だし、言うこと無しです!」
「美しい、かな?」
「小山さんも一緒に筋トレ、どうですか!?」
「私は遠慮する」
鏡の前の肉山君が、珍しく真面目な顔をして苦笑する私を振り返った。
「小山さん、すごく余計なお世話なんですが」
「なに?」
「小山さんは頭と心ばっかり使って疲れちゃっている気がします。だから身体も強くして、バランスをとりましょう」
「突然、何を言って……」
戸惑う私の顔を覗き込んでくる肉山君。その顔には、今までにない真面目な表情が浮かんでいた。
「きついっすよね、仕事。毎日怒鳴られて、頭も心もクタクタで、でも体を使ったりはしない。だから、眠れなかったりするんです」
「それは肉山君がいるから緊張して」
「勿論それもあると思います。でも小山さんうなされていました。心身って言葉あるじゃないですか。心と身体。バランスよくしなきゃいけないんだと思います」
「……」
「っていうことで、さあ! レッツボディビル!」
私がうつむくと、肉山君はふっと笑っていつもの肉山君に戻った。彼の言葉を全部肯定するわけじゃないけれど。その日、私は肉山君とともに久しぶりに筋トレをした。
「はぁー、疲れた。夕飯どうしよっかな。……肉山君?」
「小山さん……。時間です、その、レンタルの」
肉山君が下を向いて言った。私は内心複雑な気持ちだったけど、へこんでいる肉山君を元気づけようと明るい口調で笑いかけた。
「そっか。じゃあここでバイバイなんだね」
「はい、スイマセン……」
「なんで謝るの? お店に帰るんだよね、交通費いる?」
「無料レンタルですから! ジョギングして帰ります!」
もう一度ポーズをとって、肉山君が玄関から駆け出していった。
不意に、部屋が静寂に包まれる。なんだか胸がチクリと痛んだ。
感傷的になってしまいそうな気持ちを抑え込み、ベッドに横になった。きっと疲れているんだ。そうに違いない。日常に戻るだけ、いつも通りの生活がやってくるだけ。何度も言い聞かせて、毛布に顔をうずめた。
日曜の朝が来た。明け方にウトウトしただけの目に入りこんでくる朝日が眩しかった。いつもなら何をしようかとワクワクしていたこの時間。まるで心に空洞ができちゃったみたいに、何をして良いかわからなかった。
「肉山君、朝ご飯」
言葉にしたってむなしいだけ。彼はたった三日のレンタルである。まさか、短い間レンタルしただけのマッチョがこんなに心の中を埋めてしまうなんて。ボーイさんに渡された名刺を取りだした。
「……バカね、私」
こんなの、ホストに貢ぐのと同じじゃん。疲れて弱った気持ちの中に、タイミングよく頼りがいのある人が現れただけ。私はそれにコロッと行っちゃうほどには子供じゃない。でも……
「ありがとうって、伝えてない」
気づいてしまった。私、自分の事にいっぱいいっぱいで。肉山君に、三日間ありがとうって言えてない。
大急ぎで着替えて家を出る。どうしてありがとうさえ言えなかったんだろう。恋も依存もするつもりはない。だけど、この三日間彼は私を支えてくれた。助けてくれていたんだ。
「私、ほんっとバカ」
自分のバカさが嫌になる。会社の最寄り駅に着いた。まさか休日にこの駅を使う日がくるなんて。路地裏を走る。あのお店は確かここを曲がって……。
大きな扉は締め切られていて、ドアの前に張り紙が貼ってあった。
『臨時休業』
「休業? 嘘でしょ?」
呆然と立ち尽くす私の視界の隅に、扉に挟まれたチラシが目に入った。手に取って広げてみる。
「東京都ボディビル大会……」
会場はここからそう遠くない場所にある。肉山君はこれに出るのだろうか。私は急いで来た道を戻り、会場のある駅目指して電車に飛び乗った。
会場に駆け込んで入場料を払う。手渡された参加者案内に視線を走らせた。
「肉山……あった! 男子70キロ級、バルク肉山!」
私は急いで会場に入り、観戦スペースの最前列に座った。ステージにかなり近い。私が着席してすぐに、大会がスタートするアナウンスが流れた。
次々と入場してくるパンツ一枚のマッチョ、マッチョ、マッチョ。黄色い完成とむさくるしい叫びを受け、マッチョたちがズラリと並ぶ姿は壮観であった。
「あ、肉山君!」
マッチョたちの最後に、12番という番号をパンツにつけた肉山君も登場した。音楽が流れ、選手たちが思い思いにポーズをとり自らの肉体美を競いだす。肉山君もうちで何度も姿見の前で決めていたポージングを披露している。
そうか、鏡の前の練習はこのために――
「5番、筋肉の理想的間取り図! 契約したーい!」
「7番、ムキムキ異世界召喚マスター、ブラボー!」
周囲から聞こえる応援の声。私も肉山君の掛け声を思いだし、全力で応援した。
「肉山くーん! 12番、ナイスバルク!」
私の声は届いただろうか。肉山君は得意のポーズを披露して、満面の笑みで答えてくれた。私は競技の間中、ありがとうの気持ちを込めて彼への応援を叫び続けた。
結局、表彰台に肉山君の姿はなかった。それでも私は大会を最後まで見て、会場の外で彼が出てくるのを待っていた。
「肉山君、お疲れ様!」
「小山さん! 今日は本当にありがとうございました!」
「残念だったね。肉山君が一番カッコよかったのに」
「自分なんてまだまだですよ! でも、そう言って頂けて嬉しいです」
ポーズを決める肉山君に、私は深々とお辞儀をして言った。
「肉山君、三日間どうもありがとう。とっても楽しかった」
「小山さん、自分も楽しかったです! ありがとうございました!」
肉山君が笑って大きな手を差し伸べてきた。私も手を伸ばして、力強くて大きな手と握手を交わした。これ以上、どうしていいかわからない。それはきっと彼も同じで。
私たちは長い間握手を交わして笑い合っていた。
ドタバタと動き回った日曜日が終わり、月曜日の朝が来た。昨夜の別れ際、肉山君は「一から鍛え直して優勝目指します!」といって改札で手を振ってくれた。きっと肉山君なら、近いうちに優勝出来るに違いない。
「連絡先、聞けばよかったな」
お店の名刺があるという安心感と、連絡先を聞く気恥ずかしさに私は負けてしまったのだ。日常は私の気持ちなんかお構いなしに動きだし、私はやっぱりお局様にお説教を頂いていた。
「小山さん、ちゃんと聞いてるの!?」
お説教は、いつにも増して厳しかった。嫌々あげた目線の先で、お局様は般若の形相で私を怒鳴りつけている。その向こう側、ビルの窓ガラスの先で黒い影が動いた。
(何、あれ?)
四角い大きな長方形の影は、どうやら窓の外側を清掃する業者のゴンドラらしい。あーあ、怒られている姿を知らない人にまで見られてしまうのか。憂鬱な気持ちで窓の外に視線を送ると、そこには見慣れたマッチョの姿が――
(肉山君!?)
お局様のお説教は続く。その後ろの窓ガラス越しに、ムキムキマッチョの肉山君。シュールな光景に目を丸くしている私に向かって、肉山君が大きく手を広げ、指を動かした。
三つ、二つ、一つ……そして、握りこぶし!
肉山君が、次々とポーズを繰り出していく。あれは……
「なにぼーっとしているの!?」
「キレてる!」
肉山君がポーズを変える。
「きゃ!? な、何よ突然大きな声出して!」
「デカいよ!」
肉山君の筋肉は止まらない。
「く、口答えする気!?」
「バリバリ!」
最後は得意の決めポーズ、モストマスキュラー!
「生意気な……。もういい、知らない!」
「ナイスバルク!」
退散していくお局様。満面の笑みの肉山君が乗ったゴンドラが、上の方へせりあがっていった。
昼休み、急いで屋上に駆けつけた時には、もうゴンドラも肉山君もいなくなっている。またお礼を言いそびれてしまった私は、会社が終わったら彼のお店に行こうと決めた。
退社時刻になって、目抜き通りから路地を曲がって、目指す場所まで二百メートル。いつもより遠く感じられた道を早足で歩く。ドアのノックすると、最初の日に出会ったオーナーさんが迎えてくれた。
「肉山君いますか!?」
ポーズをとったオーナーが、私の言葉に表情を曇らせた、
「彼は昨日づけで退店いたしまして」
「えっ!?」
「ほかにも良いマッチョをご用意しております。ささっ……」
オーナーの言葉を無視して、私は駅の改札まで走った。
けれど帰宅ラッシュで人で溢れた駅前には、どこにも彼の大きな影は見当たらなかった。ビルの向こうの肉山君を思いだす。あれは、律儀な彼のお別れの挨拶だったのだろうか。
息苦しい満員電車にゆられて、おぼつかない足取りでアパートに帰るまでの間、私は彼と過ごした日々をぼんやりと思い返した。楽しかった、充実していた。それなのに、ううん、だからこそ。胸の奥がチクチクと痛む。
アパートの階段を昇り玄関へ足を向けた私の耳に、聞きなれた男の人の吐息が聞こえた。私は慌てて廊下を曲がる。私の部屋の前に、彼がいた。
「肉山君……!」
玄関の前で腕立て伏せをしている肉山君が、立ち上がって笑顔で親指を立てる。私は思い切り、そのたくましい身体に抱きついた。
「おかえりなさい、小山さん」
「ただいま」
肉山君のたくましい腕の中で、私は目を閉じた。
私とマッチョの日々は、きっと――これからもずっと続いていくのだろう。
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