一章

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一章

 寺島川。集落の真ん中を走る川と同じ名前の集落は皆が顔見知りの、本当に小さな村だ。昭和の合併によって寺島川村とは呼ばれないが、それで何が変わるわけでもない。  僕の家も。そして、靴が消えたって噂になっている水川も。この小さな村で過ごしている。  何かがあれば一瞬で拡がってしまうし、娯楽なんてまったくもって無いものだから、どうでもいいような噂でも耳残ったりする。  義姉から聞いた、水川の噂。学校へ向かう途中でも、それは聞こえてくる。 「水川なにそれ、長靴?似合ってるよ」 「靴がないんだから仕方ないだろ。サンダルで来る訳にも行かねぇしさ。あーあ、どこ行ったんだか」  当人ということもあるのだけれど、僕の前を歩く二人組、水川ダイキと滝本ヒトミもまた、例に漏れなかった。 「靴屋なんてそうそう行けねぇし、しばらくはこのままかなぁ」 「学校で履き替えるのが救いだね」  教室へと着いても、話題は変わらない。むしろ、人数が増えたことでより酷くなっているようにも思えた。  田舎の学校だ。一学年に十人も居ない。話をすればするほどに、水川の苛立ちが高まっていくのを感じていた。 「一昨日の夜には絶対あったんだけどな」 「洗ったんじゃないの?」 「野良猫が持ってったとか」 「そんなことあるか?水川の足の臭さに耐えれる猫が居るかどうか……」 「別に俺の足は臭くねぇよ!」  彼がまだ来ていないクラスメイトの机を蹴るのを、僕は何の気なしに目で追った。  耳障りな音を立てて動くのは、去年転校してきた土居さんの席だ。  蹴られた机から僕の席が近かったのもあって、目立たないように席を立ってズレたそれを直すのと、彼女がやってきたのはほとんど同時だった。  土居アカネ。県外から引っ越してきた長身の彼女は、一瞬だけ僕に視線をやってから、何事もなく席に座った。  彼女に対して誰も挨拶をしないのは、話しかけにくい雰囲気が出ているからではなく、僕たちがそういう空気感を作っているからだ。  だけど、今日に限っては違うらしい。滝本が土居へと声をかけた。 「ね、水川の靴が消えたの何か知らない?」 「ううん、知らないけど……」 「あっそ。ならいいや」  あまりにも愛想のない会話であるが、ここでは珍しいものではない。  中学二年生になって二週間が経った僕たちは、初めて会った時から、彼女との接し方を間違えたのだ。  僕たちはもっと寛容になって、外の世界に目を向けるべきだった。  会話の終了と共に鳴った古めかしいチャイムの音を耳に残して、立っていた水川たちは席に着いた。  彼らが席に着いてわずかに訪れた静寂に、土居の視線が僕へと向けられたように思えたが、努めて気のせいだと素知らぬふりをした。  贔屓目に見なくても綺麗な彼女と目を合わすのを嫌ったのではなく、単純に、助けを求める瞳から逃げたのだ。  僕は愚かで、救いようがない。  土居アカネが虐められているのを知っていながら、何をするでもなく教室の隅で黙って座っているのだから。  ストレスによって肌には鳥肌が立ち、呼吸は自然と浅くなる。  僕は机の上に上体を預けて目を瞑り、両腕を強く組む。もし、こんな時に声が出せたなら、僕は何を言うのだろうか。
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