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一年を通して暑さを覚える時期などわずかだが、それでもこの舞を踊っている時は汗ばむことが多い。
かつてこの儀式を行う際にはもっと豪華な舞、というより劇が執り行われたと聞く。
私の師匠もそのまた師匠にそう聞いたぐらいの伝聞情報なので、真偽のほどはいまや定かではないが、汗による不快感に襲われている今、その時代が少し羨ましい。1人でやっている分、私の負担は上がっているような気がしてならない。
最後にタン、と足音を立てて、師匠から教わった舞を終え、今回生贄として選ばれた人の前で頭を垂れる。どうか、この社会に、豊かな実りを届けてください、と嘆願するポーズ。
しばらく地に頭を押し付けた後、今度は立ち上がり、懐に用意していた鞘付きのナイフを取り出す。それを生贄の震えている手に握らせる。
震える手を介助してあげ、刃を出させる。私はこれまた懐に用意していた、木彫りの彫刻を取り出す。何度も何度もこの儀式で使われたそれは、もうボロボロで、何となく可哀想な気分になる。
地に蔓延る化物、ワームを形どったそれを、私は生贄の前に差し出す。生贄は怯えた顔をしている。誰も助けてくれないのか。本当にこのまま最後までいってしまうのか。これは現実か。そんなことを考えている表情だ。
残念なことに、彼を取り巻く状況は現実そのものだ。
生贄は少しの間、その表情のまま固まっていたが、周囲を少し見まわして、自分の味方がいないことを確認できてしまった後、さっきよりも何倍も震えた手で彫刻にナイフで傷をつけた。
ワームに負けぬよう、戦えるようにという願いをもとに考案されたのであろう、この動作を、はっきり言って私は心の底から嫌いだった。
唐突に、この儀式は嘘だ、ごまかしだ、詐欺だ、大声で今すぐそう叫んでやりたい気分になる。
社会を維持するための資源が足りなくなっているから、胃袋の数を減らす必要がある。この儀式が必要になっている理由はそれだけだ。かつての文明の残滓を拾い上げて、持って帰ってくるように、なんて戯言、誰も信用してなどいない。
それでも罪悪感はあるから、自分がそんな残酷なことに加担しているなんて事実に耐えられないから、お題目だけ立派にしている。
生贄はナイフを私に返す。昔はこのナイフも返却されることなく、生贄に持たせたままだったのだが、最近では回収するようになった。どうせ持っていても、無駄なだけだろう、というのが理由なのだが、昔はそれをわかっていてもやらなかったはずだ。
ナイフを受け取り、生贄が私に背を向けてから、ぐるりと周囲を見渡す。見物人がほとんどいない。私がこの仕事をするようになった時には既にそういった人たちは、少なかったのだが、減少傾向に拍車がかかっている。もう、皆、見たくないものは見ない、と心に決めたのだろう。生贄は私からどんどん離れていく。その背中に何か言葉をかけないといけないのでは、と迷う。だが、何を言えばいいと言うのだろう。何を言ったところで、気休めにもならない。
都市の最北端に彼は立つ。一部出っ張ったように突き出ているそこに立った彼は、こちらに振り向く。私は本当に死ぬぞ、表情がそう伝えてくる。
ごめんなさい。
私が心の中で紡いだその言葉を、その人が聞けるはずもないのだが、やがて彼は諦めたように前を向いた。
そして、一歩足を踏み出した。
重力の働きは、人の世界が無茶苦茶になってしまった後でも、基本的には全く変わらず、彼の姿はあっという間に見えなくなった。
さあ、彼は旅立った。我らはひとまず解散しよう。そして地上から恵がもたらされるのを待とう。
都市長がそんな世迷言を言って、神官である私もようやく今回は晴れてお役御免だ。高い構造物が両側に聳える通路をひたすら歩き、自分に割り当てられた住まいへと急ぐ。
体もくたくただが、心も死にそうだ。腹は減っているし、体もドロドロに汚れているが、とにかくぐっすり、眠りたい。
そこまで考えたところで、今日が配給日であることを思い出した。面倒臭くなりながらも、私は都市中央部の方へと向かう。休みはしたいが、1回でも配給の機会を逃すと、本当に困窮してしまうので、仕方がない。
中央部の広場に着くと、既に多くの人がいた。自分の肌が、人々の視線に射貫かれるのを感じ、ぞわっとする。その攻撃的な視線を前に一瞬ひるみそうになったが、ぐっとこらえて、配給を受ける列の最後尾に並ぶ。
別に私に対してだけじゃない。自分にそう言い聞かせる。列に並ぶ人間が減るほど、1人あたりの配給量も増えるかもしれないので、この広場に入る人間は例外なく、射貫かれてしまう運命だ。
共同体内の他人の死を、いけないことだが、願わずにはいられない。惨めなことこの上ない。
鬱々とした気持ちになりながら、列に並び続ける。自分の後ろにもぽつぽつと人の列ができ始める。その人たちが来なかったらよかったのに、と私も思ってしまう。空になっている胃袋は、本来人間が持ち得る善意も良識も薙ぎ払っていく。
人の列の形成が落ち着いたころ、ようやく配給が行われ始める。先ほど儀式の場で会っていた都市長が、監督しながら、1人1人に食料と水が渡されていく。固く、しかし保存の利くパンの大きさを遠目で見る。前回よりも小さい、気がする。
列に並んでいる人たちもそう思っているのか、ただでさえ重苦しかった空気が、更に重苦しくなる。
もっと貰えないのか。
これっぽっちなのか。
このままじゃ飢え死にしてしまう。
受け取る時にそんな交渉が次々起こった。だが、いくら嘆願しても、結局最後はため息とともに離れざるを得ず、いつしかそんな交渉、やったところでお腹が減るだけ無駄、と考えるようになったのか、騒ぎ自体も起こらなくなった。
表面上の騒動がなくなった「だけ」の状態が続き、私も僅かながらの水と食料を貰うと、すぐにその場を離れた。息苦しかった。広場から離れてしばらくして、ようやく新鮮な空気を吸えた気がして、ほっとした。
改めて手の中のものを見る。パンの大きさは、明らかに以前の3分の2ぐらいしかなかった。
「生贄を結構な頻度で出して、これか」
思わず呟いてしまう。仕方がない。誰も悪くない。過去の人類が作った文明の利器は、今や全て壊れかけで、生産能力も落ちている。じり貧の状況で、渡せる物はそう多くはない。空きっ腹は最早、都市全体に蔓延っている病と考えるほかない。
水のボトルをポケットに突っ込んだ後、通路を歩く。途中何人かうなだれながら歩いている人間を見かけた。配給がこの状態だと、そうなるのも仕方がない。
「おい、よこせよ、このくたばりぞこない」
そんな言葉が耳に届いて、若干ぼぅっとしていた頭が急にしゃきんとする。あたりを見渡すと、何人かの人間が私を手招きで呼んでいるのが見える。
神官さん、早く来てください。そういう彼らはしきりに角を曲がった先を指し示している。急いでそちらに向かうと、見つけた。白髪の老人に馬乗りになって、拳を振るっている男がいた。
「こら、やめなさい」
怒気を孕んだ声を出す。普段なら職業柄、滅多にしないように心がけていることだが、こういういざという時にだけは使うようにしている。その方が威力が上がるからだ。
だが、馬乗りになっている男は、こちらをちらりと見ただけで、そのまま老人を殴り続ける。
全く聞く様子がない。木偶の棒のように突っ立っている見物人の1人に声をかける。
「一緒に止めますよ」
私のその呼びかけに、しかしそいつは答えない。しばらく歯がゆい時間を経験してから、埒が明かないので周囲を見る。
全員揉め事は嫌だ、と考えているのは明白だった。ただでさえ空腹で疲れているのだから、無理もない。
ほぞをかみながら、私は腹を決める。
「おい、いい加減にしなさい」
私は暴行を物理的に止めるため、そいつの腕をつかんだ。いや、つかもうとした。
そいつは一瞬の迷いもなく、止めようとした私を標的にすることに決めたようで、老人の体から飛びのいた後、私に体当たりしてくる。
たまらず床に押し倒され、後頭部に衝撃、それから間を置かずに今度は横面に衝撃が走った。男は笑っていた。私を見ながら、淀んだ目をしながら、憂さを晴らしている時特有の笑顔を浮かべている。
組み敷かれたまま、2回、3回と殴られる。自分の脳が頭蓋骨の中で激しく揺れるのが分かる。喧嘩の実力差がありすぎて、反撃しようなんて夢にも思わなかった。
「祈るばっかで役に立ってない奴が、いつまでも調子に乗るな」
私がびくとも動けなくなっているのを見て取ると、男は吐き捨てるようにそう言って、私の顔に唾を吐く。そして、立ち上がろうとした。
その時、男の体がいきなり2メートルほど横に、蹴り飛ばされた。
無様としか言えない、言葉にもなっていないうめき声をあげながら飛んだ男に、蹴りを放った男、ヘンリーは、さながら風のように更に間合いを詰める。蹴り飛ばされた男は、ヘンリーを睨みつけながら応戦しようと拳を振るおうとする。
だが、ヘンリーはそれを全く脅威と思っていないのか、かわすよりも自分の拳を繰り出すことにしたようで、結果、ヘンリーの拳が相手の顔に刺さるほうが僅かに速かった。
この都市の守りとして第一線で活躍するヘンリーに、勝とうと思う方がどうかしている。
男は私と同じく脳震盪にでもなったのか、あっという間にその場で崩れ落ちた。ヘンリーは床に寝転びそうになっているそいつの体を、髪の毛をひっつかんで無理やり起こす。
「謝れ。2人ともにだ」
有無を言わさぬ、命令口調。
ようやく何とか身を起こし始めた私に対して、強盗男は睨みつけるような視線を寄越してくる。謝りたくない。そんな心情がありありと伝わってくる。だがヘンリーの舌打ちの音が聞こえると、強盗男は観念したのか、
「ごめんなさい」
と私に対して短く謝ってきた。
「もう1人いるだろうが」
ヘンリーがすかさず言うと、その男は不承不承といった感じで、殴っていた老人にも謝る。彼は、義務は果たしてやった、と言わんばかりに、フラフラになっている脚を殴りつけて、その場を去ろうとする。
「待て。あれは君のものか?」
私は去ろうとする男に声をかけ、床に落ちているパンと水の入ったボトルを指さす。男は、やっとこさ床から身を起こしつつある私に対して、やさぐれたような表情を向けながらも、同意を示す。
「なら、持っていきなさい。君のものだ」
私の言葉にヘンリーの表情が苛立たしそうに、少し動くのが見えたが、気にするつもりはない。しばらく男は、私を睨みつけていたが、それでもここで騒ぎを起こし続けるのは分が悪いと分かっているようで、床に転がっていたそれらを素直に拾う。
「ありがとうございます。これで小便が出せますよ」
水のボトルを拾う時に、ありったけの憎しみとイライラを込めた声音で、そんな皮肉を言う男に、ヘンリーの体が少し動くが、私は目配せで止める。男は憤懣やるかたなし、という足取りで私たちから離れていった。
ヘンリーはまだ床から完全に起き上がれていない私を介助して立たせ、その後、殴られていた老人のケガの具合を見る。かなりひどくやられているのが一目で分かり、だが同時に何もできないということも分かった。医薬品なんてものは、とっくの昔に底を尽きた。
今日貰った水で可能な限り冷やしなさい、とヘンリーは伝える。老人は何とかかんとか自力で立ち上がり、危なっかしい足取りでその場を離れていく。
「災難だったな、ハーバート」
そんな労いの言葉をかけられて、一瞬どんな反応を示していいのか分からなかった。まず第一に体が引きちぎれるぐらいの惨めさに襲われる。本当に私は祈ることしか何にもできていない存在なのだ、と強く意識させられた。
続いて怒りが湧いてきた。憐れみと庇護の対象になった自分に対しても、守ってくれたヘンリーに対しても。上手く説明ができない怒りだった。
でも、そんな整理のついていない感情を前面に出せるほど、私は子供ではなかった。結果、私の口から放たれる言葉は、無難にまとめ上げられたものになる。
「ああ、助かったよ。ヘンリー」
私はそう言いながら、ふと自分の持っていたパンが無くなっていることに気がつく。慌てて探すと、傍らに落ちていたので、急いで拾う。その行動の素早さに自分でも驚き、かつ、情けなくなる。
「歩いて帰れそうか?」
「何とか」
「そうか。じゃ、俺はもう行くぞ」
傷はちゃんと冷やしておけよ、と付け加えてヘンリーは飛んでいく。あっという間に壁の高さを超えるところまで上昇し、部屋に帰るか、詰め所にでも戻るのでもするのだろう、とにかく視界内から消えていく。
少しだけ深く呼吸をした後、私も歩き始める。まだ若干ふらつく。壁に自分の体をもたれさせながら、最低限倒れないようにする。こんな風になっている時にさっきのような男に襲われたら、ひとたまりもないのだが、幸い、帰路では数人の顔見知りと会うだけで済んだ。
自分に割り当てられた部屋に戻る。布で仕切られているだけの簡素な部屋に入ると、横から怒鳴り声が聞こえる。
これっぽっちで、どうやって家族を養っていくんだ。仕方がないだろう、配給分はこれしかなかったんだ。そこはごねるんだよ、飯食わなきゃいけないガキが家にはいるんだって。そんなこと聞いてくれるものか。
いっそ自分の鼓膜を貫いてみようか、と私は一瞬暗い欲望を抱いた。少なくとも聞こえなくなるので、ストレスは減るだろう。
神官の服を脱いで着替えてから、寝床がわりに使用している、空き袋の残骸に身を横たえる。空腹だった。部屋に帰ってきたというのに、未だにパンを手に持ったままでいることに気づく。片手でそれの端をむしり、口の中に入れる。美味しくはない。あくまで栄養を効率的に取ることに特化した食品なので、味は何年食べ続けていても、決して慣れないぐらいに悪い。
口の中に鋭い痛みが走る。思わず声をあげそうになるが、少し落ち着いてきた、隣人2人に聞かれたくなかったので、何とかこらえる。
何とかパンを飲み下し、舌で口の中を探る。右頬内側あたりに傷口があるのが分かった。殴られた時に自分の歯で傷つけてしまったのだろう。かすかに血の味がする。嫌な味付けだ。
水のボトルを殴られた箇所にあてる。少しだけ冷えているそれの感触が僅かに心地いい。
(あれを行うべきなのかもしれない…)
痛みが何かのきっかけになったのかもしれない。唐突にそんな考えが頭をよぎる。自分がいかに間違った考え方をしているのか、理性はすぐに察して、即刻やめたほうがいい、と判断する。だが、思考はまるで自分ではコントロール出来ない化物のように動く。
これは悪い流れだと分かっている。だけど止められない。
殴られて、唾を吐かれて、何もできなくて、気持ちが弱っているのだろう。想像は止まらず進んでいき、仕舞いには口からヒヒっと気持ちの悪い笑い声が漏れ出る。間違っていても、楽しい妄想だった。隣室の喧嘩は、気がつかないうちに、また激しさを取り戻したようで、怒鳴り声は今やこの辺り一帯に響き渡るようなものになっている。
頬をぶたれる音。女のすすり泣き。騒ぎを聞きつけた野次馬たちの囃し立てる音。そんなゴミのような音が耳に届き続ける。そのことが私の妄想を加速させていく。
(汚い世界にはさよならだ。皆、皆、どうでもいい)
私はそんなことを考えながら眠りに落ちていく。
それなりの期間生きているが、それでも経験したことのない事象というのは、稀に起きる。
神官という職に就いているのに殴られたり、配給日になっても何も配られなかったり、隣人の暴力がひどくなりすぎて見かねて止めに入ると、何故か私まで殴られたり、と色々起こる。
目の前に置かれている大量の遺体は、そんなものの中の1つとして数えてよいだろう。死体。死体。死体。老いも若きも、男も女も大量に死んでいる。普段配給を配る広場は、今や故人との別れを惜しむ人たちでごった返していた。
遺体袋を前に泣き崩れている人達。せめて生きていた痕跡を残そうと、髪の毛や骨の断片を切り取る人達。目の前の光景にただただ呆然とする人達。色々な人がいるが、多分どの人たちも、これより凄惨な光景は見たことがないはずだ。
2日前から始まったワームの攻勢は、まさに大災害と呼ぶにふさわしかった。普段なら1、2匹が散発的に飛んでくる、ぐらいのものだったが、一気に数十が飛んできたので、あっという間に最初に出撃した騎士たちは食いつくされた。
ワームを狩って、肉として食うという、都市の中で唯一の贅沢を楽しもうと向かった人たちは、どんな絶望的な思いで大量の奴らと戦ったのだろう。
神官である私も、都市の防衛機構を可能な限り最大限に使い、騎士達は現役はもちろん、引退した人たちまで駆り出された。それでも何匹かは防衛線を突破し、都市の中にまで攻め入ってきて、その都度甚大な被害が出た。
ここに集められた死体は、殺された人間の一部だろう。大抵はワームに食われてしまった。大量の死人が出たから、ということでここに呼び寄せられたのだが、ここに来るまでの通路も大量の血で染め上げられていた。神官の仕事たる鎮魂の儀式も既に終えたが、そんなもの、何の役に立つのか。死を前にして嘆き悲しんでいる遺族は、私の方など全く見る暇がないというのに。
広場に何人かの騎士が入ってくる。パッと見たところ、比較的傷が浅いもので済んでいる彼らは、床に置かれていた死体に近づき、持ち上げる。広場にいる生存者全員に緊張が走った。
彼らは、もう、この都市から捨てる気なのだ。
遺体は腐敗する。腐敗した遺体は伝染病の温床になりかねない。いや、それどころか死体をめぐって、もっとひどいことも起きるかもしれない。
遺体を担ぎ、再び飛び上がる。広場から見えないところへと飛んでいき、しかし、3分もしないうちに戻ってくる。戻ってきた時、当然遺体はない。捨てたのだ。地上に。
少しずつ、少しずつ広場の遺体の数が減っていく。
場に漂う空気は時間が経つごとに、強張っていく。騎士たちは広場の最奥に並べられている遺体から、順番に捨てている。そのことに全員が気づくまでにそう時間はかからなかった。
遺体に縋って泣いている遺族の中から、順番を変えようとする動きが起きた。最初は泣き縋ってくる遺族もいない、孤独な遺体を最奥に押しやった。そしてその分、自分の家族の遺体を広場入り口に近づけた。
それらの遺体が無くなると、今度は泣き縋る遺族の少ない遺体を奥に押しやろうとした。そのことを非難する遺族もいたが、数の暴力には勝てず、泣く泣く順番を譲り渡した。
だが、遺族が多い遺体しかいなくなった時に、彼らはもう簡単にズルができなくなった。
遺族同士で大きな争いが起きた。おまえのところが、先に捨てろ。いいや、お前のとこだ。結局すぐに捨てられるので、順番なんて大した問題じゃないのだが、一度火が点くと収拾がつかなくなった。
遺体を捨てて広場に帰ってきた騎士が、その争いに対して注意するも、止まることはなかった。そうこうしているうちに、騎士が集まってくる。何人かが取り押さえられたが、何人かは反対に騎士たちに食ってかかった。
「もう少し、一緒にいさせてくれてもいいじゃないか」
「あんたらに人の心はないのか」
「毎日俺らより、配給優遇されているのに、こんな時ぐらいこっちの都合にあわせてくれよ」
騎士たちに対する要望や文句が次々と溢れかえる。今までの鬱憤晴らしだな、と私は思う。騎士たちはその危険な任務に就くため、色々な面で一般市民よりはるかに優遇されている。
配給は少し多めに貰えるし、治安維持を名目とした暴力や権力の行使も、必要な範囲で容認されている。もちろんそれは都市を守るために不可欠なものではあり、皆そんなことは分かっている。心の中では実は感謝している人の方が、多いぐらいだろう。
だが、細かい不満はあると言えばあるし、何より全員がこの惨状を前にして、理性を放棄してしまった。
「大体、あんたらが不甲斐ないからワームがここまで来たんじゃねぇのか」
そんな言葉が広場に響いた。言った本人の顔を見ると、しまった、という顔をしている。だが、私は彼の言うことも一理あると思ってしまったので、あまり咎める気にはなれない。結局、騎士や私がワームを完璧に抑えていれば、こんなことにはならなかったのだから。
騎士の方もそんなことは分かっているのか、何も言い返せず、憮然とした表情だった。仲間を失い、体はぼろぼろ。言い返したいこともあるだろうが、配給を優先的に受け取っているのは事実であり、その分を市民に還元できないのは明らかに落ち度である。黙らざるを得ないのだ。
暴言に対して沈黙を保つ、そんな騎士たちを見て、その場の論調ががらりと変わる。何で、もっと効率的に戦えないのか。何で、こんなに被害を出してしまったのか。仕事しろよ。訓練はちゃんとしているのか。していないって噂だぞ。
騎士たちは迷っているようだった。今ここでこいつらを全員締め上げたいというのが本音なのだろうが、そんなことをすると本格的に収拾がつかなくなるので、何とか耐えていることが、仕草や表情から見てとれる。
若い騎士が動く。罵声を浴びせられながらも、遺体のもとに近づく。別に意趣返しのつもりもなく、自分の仕事をこなさなければならないという義務感で動いたのだろう。だが、その騎士は詰め寄った遺族に、腕をつかまれた。
咄嗟に飛ぼうとしたのだろう。足がほんの少し浮き上がったが、2人、3人と遺族がまとわりつくと、それが重りとなって浮き上がれなくなった。若い騎士は、怯えていた。むき出しでぶつけられる本気の殺意と怒りを向けられて、体を上から下まで震わせている。
反射的にその手を払いのけようとしたのは、むしろ自然なことで、責められるようなことではない。だが、タイミングが悪かった。
「いってぇなぁ!」
遺族の1人のその短い言葉をきっかけに、その場にいた騎士以外、全員の怒りが爆発した。遺族達が騎士達に一斉に襲い掛かる。流石に無抵抗を貫くこともできず、騎士たちも応戦しようとする。が、多勢に無勢で1分後には、早めに空中に逃げを打った数名を除いて、ほぼすべての騎士が地面に組み敷かれていた。
神官の服を着た状態で、会議が始まるのをぼんやり待っていたのだが、いつの間にか始まっていたようで、気がついたら都市長の話の冒頭を聞き逃していた。
「…あるからして先日の騒ぎを起こした者に対しては、法の下に裁きを行う予定だ。だが、最早、話はそれだけではすまん。皆気がついていると思うが、最近になって都市全体の空気がいつにも増してピリピリしている」
「空腹が主な原因なのですが、そのせいで配給品の奪い合いも頻発です」
大きなため息をついて、年齢の割には老けこんだ男が答える。確か、北東のエリアを取り仕切る班長だったろうか。
「物資の増産はどうしても無理か?」
頭を抱えながら、縋るような調子で都市長が質問する。向かい側に座っている、生産班班長が首を横に振る。
「今回の襲撃で、生産設備にも被害が出てしまっていて、はっきり言って増産はおろか再稼働の見込みさえありません。何とか出来る限り修理はしてみますが、今までも辛うじて動いていたもののいくつかはもう動かないと見てもいいです」
完全に食料も水も生み出せなくなる可能性もあります。生産班がそう付け加えると、場の空気がこの上がないぐらいにに重くなる。
「ハーバート君。神官の方から何かいい報告はあるか」
話が急にこちらに向けられる。都市長が自分に対して何を望んでいるのかは、すぐに分かる。だからこそ、その望みを裏切る形になるのが何となく心苦しい。
「別に何の反応もありません。ワームの大量襲撃は直前で察知できたのですが、それ以来、何も音沙汰がありません」
くそったれ宗教め。どこかの席でぼやきが聞こえた。事実をそのまま言っただけなのに、理不尽極まりない態度なのだが、言いたくなる気持ちも分かる。しばらく場に沈黙が流れる。誰かが少しでも動けば、その動きがきっかけとなって、全てが崩れ落ちるような、そんな沈黙。
それを破ったのは都市長だった。
「とにかく今は目先の問題だ」
「そうですね。皆を落ち着かせないと」
「現状の苦しさは分かっているはずですし、配給の量を減らせますか?」
「いや、それは流石に無理だ。ただでさえ困窮しているんだぞ」
「生贄を増やすしか…」
「でも、ここ数日で私たちに対する不信感も増えているのに、素直に生贄になってくれますかね?」
「それに被害の規模でいくと、今回は1人や2人では足りない」
議論はすぐに暗礁に乗り上げる。絶望的な気持ちになるが、一方でそりゃそうなるよな、と冷静に思っている自分もいる。何もかも全てがどん詰まりなのだ。
だが、騎士からも遂に生贄を出さざるええないかも、という話になった時、流石に私は遮った。
「騎士を生贄にするとはどういうことですか」
北東地区エリアの班長が私の質問に答えてくれた。
「そのままの意味ですよ。市民が我々に対して、不信感を抱いている以上、私たちはそれを解消する必要があります。その役目を担ってもらおうという話です」
最初の感想は、何だそりゃだ。
「待ってください。じゃあ都市内部の結束を固めるためだけに、私たちの側として認識されている、騎士たちの何人かを生贄に捧げるということですか」
「そうですね」
北東班長は悪びれもせずに肯定してくる。いや、そもそも北東班長が、悪びれる必要もないことは分かっている。言っていることは極端だが、もうそうするしかないのだ。
煮えたぎるマグマのように残っている不信感や不安感を、少しでも取り除いておかないと、このボロボロの共同体は、あっという間にぶっ壊れる。いや、もうぶっ壊れていると言っていい。
自分達の側からも犠牲を出してますよ、公平ですよね、そういったメッセージを放つことには一定の意味がある。
だが、無駄だと思っていても、私は抵抗をせざるを得なかった。
「都市の守りはどうするのですか? 今回の戦いで既に何人もの騎士が死んでいるのに、これ以上死んだら」
「仰られていることは分かります」
そこで北東班長はふぅっと、息をつく。これから言おうとしていることの重みに、耐えるための力をそれで得るように。
「そうですね。これ以上騎士の数が減ると、次回同じようなことが起きた時、なす術もなく崩壊するでしょう」
「だったら」
「でも、そんな近い将来に起こるかどうかも分からない可能性なんて、考えるだけ時間と資源の無駄だと思いませんか? 現状、全ての問題に一斉に対応することなんて、どのみちできやしません。だったら優先度をつけて対応すべきです。それとも何ですか? 次の襲撃の予測でもあるのですか? もしくは他の代替策が?」
北東班長はそこで少しだけ沈黙する。この沈黙が、私に敗北をゆっくりと染みこませるためのものだとは、流石に分かった。今回のような事件はそう簡単に何度も起きない。この都市の歴史上、これだけの規模の襲撃は記録がある限りでは初めてなのだから、連続して立て続けに起きる可能性なんて低いだろ、というのが彼の言い分で、それは完璧ではないにせよ、この状況ではそこそこの説得力を持っていた。
私の表情を見て、勝ちを確信したかのようで、北東班長は都市長の方に向き直る。
「心苦しいですが、今回は他に方法はないと思います。都市長、ご判断をお願いいたします」
都市長はうぅむ、とくぐもったような声を出す。おい、やめろ、と私は思う。流石に間違っているだろう。命を懸けてこの都市を守ってくれた人達だぞ。その人達に対して文句を言うやつもいるが、間違っているのは文句を言うそいつらなんだ。
焦燥と悲しみと敗北感がぐちゃぐちゃになって、自分の中で暴れ狂っているのを感じながら、私は都市長に念を飛ばし続ける。都市長と、目が合う。私がよほど切実な顔をしていたのか、都市長の表情が少し揺らぐ。でも結局、すぐに逸らされる。
1分56秒経った後、都市長は騎士の中から生贄を出すことに決めた。
気がついたら、都市の外縁部に近いところを歩いている。
会議場からどうやってここまで歩いてきたのか、恐ろしいことに全く思い出せなかった。よくぞ襲撃を受けたり、柵のないところから、地上に真っ逆さまに落ちたりしなかったものだ。慌てて、外縁部から離れる。
普段ならここまでひどい状態にはならないのだが、何故だか今日は劇的にショックを受けている自分がいる。人類が今、残酷な時代に生きているのは身に染みるほど分かっているつもりだし、今までも残酷極まりない事は起きていた。
そのたびに上手くやり過ごしていたのだ。真正面から受け止めると、辛すぎるから。
だが、何故だか今は、今までやり過ごせていた全ての痛みが、自分に襲い掛かってきているような気がした。
限界。
そんな言葉が頭をちらつく。
私は神官になってからずっと、生贄の見送りを担当していた。いや、それどころか、儀式という行動で、生贄という制度そのものに、正当性を与えてきたので、ただ見送っているだけではない。
私も殺人の一端を担っている。
ほぞを噛みすぎて、痛い。逃れたくとも、現実は影のようにぴったりとついてくる。どれほど早く歩いたとしても、決して振り切れない。
会議の途中、騎士の中の誰を生贄にするかを、決める段階になった時も、最悪だった。班長の1人が、身寄りのない騎士は誰か、という質問をしてからは、あれよあれよ、という間にそういった者の中から犠牲者を決めろ、という話に自然となっていった。
生贄になれ、と言っても周囲からの抵抗が少ないから、ある意味合理的ですらある。そう自分の中で理解してしまう。できてしまう。でも、それが弱い者いじめとそう変わらないことだとも分かる。
会議のことをずぅっと頭の中で反芻しながら、都市を歩いていく。所々に血痕や血だまりがある。終わる世界だ。私はそう呟く。何となく口からこぼれた言葉だが、妙に自分の中でしっくりと来た。自分の表現力に暗い讃辞を自分で送っている時、誰かの悲鳴が突然聞こえた。
以前何もできなかった時の記憶が、蘇ってきたが、神官である以上、被害者のためにも行ってあげねば、となけなしの勇気と義務感を奮い立たせて、歩を進める。悲鳴があがった方向に何度か角を折れながら、向かって行くと、1分も経たないうちにその現場を見つけることができた。
だが、見つけることはできても、もう私にはどうしようもないレベルになってしまっていた。苛立ちや怒りだけではない。明確な殺意をその場から感じた。慌てて、暴行を振るっている人間から見えない死角に移動する。出来る限り、相手から気づかれないぐらいに、そぅっと通路を曲がった先の光景を確かめる。血。赤。暴力。目に入ってきたものは、地獄だった。
何か言っているのが聞こえる。内容までは詳細に聞きとれなかったのだが、どうせ老い先短いんだから、さっさと死んじまえ、みたいなことを言っているのだろうか。
男は地上に組み敷いている初老の男性の首を絞めながら、そんなことを言っている。絞められている方は、当たり前だが苦しそうにしており、男の腕を何とか外せないか手で腕を掴んでいた。遠目からでも爪をたてているのが、力の入り具合で分かった。
だが、そんな反撃は全く殺意を減じさせなかったのか、組み敷いている側はずっと両手に力を入れている。止めなければ、と思った。でも、思っただけで体は動かせなかった。もしやられている男性の方に助太刀すれば、私にも命の危険が迫るのは、火を見るよりも明らかなのだ。
しばらくすると、組み敷いている側は立ち上がった。慌てて、私は彼の視界に入らないように、必要以上に隠れた。幸いなことに殺人者の足音は遠ざかっていく。十分に相手が離れたと確証を得られるまで、たっぷり3分待ち、私はゆっくりと通路の陰から出た。
首を絞められていた初老の男性のもとへと近寄り、様子を見る。死んでいるのは明らかだった。顔色は真っ青を通り越して、紫色になっていたし、老いたその顔が見せる表情はまさに苦悶そのものの状態で、固まっている。
頭の中で、何かが切れる音がした。張り詰めていたもの、今までどんなにどんづまりな状況になってきても守ってきたもの、そんなものがあっさりと自分の中で溶けてなくなるのを感じる。
私は死体に踵を返し、歩き出す。しかるべきところに報告しようという気すら起きなかった。どうせこの状況だ。お咎めがあるかどうかすら微妙だし、これから私が行うことを考えれば、やろうとやるまいと結果は変わらない。
通路を歩くとき、何人かの人とすれ違うが、幸い、誰にも襲撃をされることもなく、あっさりと私は目的地にたどり着くことができた。私がそこに近づくと壁の一部が、いつもの通り、自動で開く。
都市の操作室。通常、都市の防衛機能に干渉できる神官にしか、用のないところ。誰もいない室内で、足早に歩を進め、壁に埋め込まれている球状の操作装置に手を触れる。都市に関する情報が頭の中に入ってくる。
先の戦いでどこもかしこもそれなりの被害が出ているが、これは大した問題ではない。少なくとも今は。
自分の願望を叶えるために操作を始める。この都市を作った者が誰なのか。その謎はワーム出現以来、様々な説が提唱されたが、与えられている情報がそもそも少ないので、どれもこれも空を切るようなものになっている。しかしながら、今、私がやろうとしていることは、間違いなく開発者にとっては想定外で、なおかつ、とてつもなく嫌なことなのだろう。
その証拠にいつもよりも都市からの抵抗が激しい。本当にいいのか。正しい判断なのか。何かおかしいですよ。そんなことを言われているような気がする。でも、私はそんな抵抗の中をずんずん進んでいく。大丈夫。構わない。どうぞ、やっちゃって。都市は抵抗を示しつつも、でも少しずつ私の言うことを聞いていく。
その時、操作装置に触れていた手をがっと摑まれて、強制的に装置から離された。
「何してる?」
一瞬、何が起きたのか分からなかったが、横を見てみるとヘンリーがいた。
操作に集中しすぎて、接近に全く気がつかなかった。自分の息が荒くなっているのが分かった。額にも玉のような汗が浮いている。
「防衛機構のチェックだよ」
「チェックだけでそんな、やばい顔色になるか」
ヘンリーは全てを見透かしたような口調で告げる。私は思わず汗を手で拭う。何とか言いくるめられないか、少し迷うが、誤魔化しが通じるような段階ではないと悟った。
「白状すると、この都市を落とそうとしている」
「…は?」
内容が言い方の軽さに全く見合っていない重さなので、ヘンリーが間抜けな声をあげる。
「んなこと、できんのか? いや、ちょっと待て。そもそも何で」
「するか、って言いたいんだよな? もう、うんざりだからだよ」
ヘンリーの言葉を途中で奪う形で、割り込む。何となく会話の主導権を取られるのが面白くなかった。静かな操作室の中、私はヘンリーが近くにいるのに、妙に孤独を感じてしまう。
「もう、ここは、駄目だ。はっきり言ってどこもかしこもボロボロ。食料も水もだけど、ありとあらゆるものが足りない。さっき、また、人が殺されてた」
ヘンリーの眉間に皴が寄るが、構わず続ける。
「騎士の中からも生贄を出すってさっき決まった。市民の鬱憤を晴らすためだってさ。もう無理だ。どう考えても。今まで何だかんだ、手を付けられずに済んできた騎士を殺しにかかるんだったら、もうこの都市を守るために戦う人間なんて、いなくなる」
自分の唇が冷たくなっている。血液が回り切っていない。ああ、自分はこんなこと本当はしたくないんだ、と心の中で愚痴る。でも、全員のためにやる必要がある。それが勝手な思い込みであることも重々承知の上だ。
「皆で飢えながら、憎みあいながら、殺しあいながら、生きていくより、今ここで都市ごと全滅させた方が」
「それは、お前の独断か?」
今度はヘンリーが私の言葉に割り込んできた。答えの分かりきった質問をされて、何となくむかっとする。
「私の独断に決まってんだろ。話し合うにしても、あの会議に参加している面々の前で、こんなもん議案にあげたら、その場で更迭されかねないからな」
正直に答える。別に自分が間違っているとは思わなかった。
「…お前は人殺しになるつもりか?」
「とっくの昔に人殺しだよ、私は」
「儀式のことを言っているなら、違うだろ。あれは都市の総意でやっている」
「そりゃそうかもな。でも私もその総意の中の1人だ」
「…生きたいと思っている奴らだっているんだ」
「この状態だったら、その内死にたくなるだろ」
ヘンリーの質問にいちいち反抗する。退かない。退けない。本当はやりたくないことだけど、それでもやらねばならない。
自分の中で、歪んだ、押しつけがましい、濁っているとしか言いようがない、正義心が生まれているのを感じる。
「もう何もかも終わりだよ、ヘンリー。早いか遅いか、違いはそれだけなんだ」
そう言って、私はヘンリーの手を振りほどく。ヘンリーは私の方に再度手を伸ばしたそうにする。でも、手を止める。それを私は同意とみなして、再度操作装置の方に手を伸ばす。
「昔、俺の姉も生贄になった」
ヘンリーがまるで独り言のように呟く。少し迷ったが、何となく手を止める。
「俺が5歳の時だ。俺んところは両親も早くに亡くなって、他に繋がりもなかったから、目をつけられたんだろうな。俺が選ばれる筈だったんだろうが、その頃からは俺はもう、飛べるようになり始めていた」
生贄に最も選ばれやすいのは、自力での抵抗が困難な子供なので、ヘンリーの読みは外れていないのだろう。そう言えば、ヘンリーは昔から騎士としての教育を受けていたな、と頭の隅でぼんやりと考える。飛べるものは騎士としての人生を始められる。
「姉が地上に落とされる前の日、詰られこそしなかったものの、それでも息が詰まるような思いだったよ。妙に優しくしてくれたけど、それがかえって怖かった」
「それが何だ? 思い出話なんかして何になる?」
ヘンリーの発言を遮る。この話の着地点が見えずにイライラした。ああ、すまん、とヘンリーは軽く謝る。
「俺が言いたいのはだ、この都市は確かにくそったれだが、それでも姉さんの死の上になりたっているということだ。姉さんだけじゃない。その他大勢の人もだ。お前がそれに絶望している気持ちは痛いほど分かるが、それでも」
ヘンリーはそこで言葉に詰まる。自分でも言葉に出すのに少し抵抗があるのか、しかめ面をする。彼が喉からひねり出すような感じで、言葉を発するまでに数秒かかった。
「俺たちは最後まで生ききるべきなんだよ。それがどんなに苦しくても。それが今まで死んでいった生贄や、この都市を守るために命がけで戦った騎士たちに対する、礼儀だ」
再度ヘンリーは私の手をつかみ、操作装置から遠ざける。
何となくヘンリーの中には迷いが残っている気がした。自分に嘘をついているのが表情からも見て取れた。
多分私が鋼の意志を以て、この都市を落とそうとすれば、できるという確信があった。
でも、少し私は試したくなった。
「生ききるって言ったって、どうするんだ? 食糧も水も薬もモラルすらもない中で、果たしていつまで生き残れる?」
ヘンリーは私の質問を聞いて、少しだけ疲れたような表情をする。でも自分の中の勇気を奮い立たせたようで、再び私の目を見据えて、告げる。
「俺は地上に行くつもりだ」
危うく、バカが、と言ってやりたくなったのを必死でこらえる。
「地上…?」
「ああ、俺は地上を調べたい。ワームに地上を占拠されてから数百年経ったが、運が良ければ、もしかしたらだが、何か使えるものが残っているかもしれない。詳しい被害状況は掴めていないが、どうせ今回の襲撃で物資も少なくなっているんだろう。だったら、俺が行ってみる」
「アホか」
結局罵声が口から出てきた。でも仕方ないだろう。本当にそうとしか言いようがないのだから。
「それは結局生贄と同じじゃないか。飛翔していないワームがどれだけ強いかは知っているよな」
「話ぐらいは、聞いている。だが、ただの生贄とは事情が違う。まず俺たち騎士には一応ワームに通じる武器があるし、何より空を飛べる。そして数百年かけて戦っているからノウハウが蓄積されている」
「数で押されるぞ」
「いないところを、うまく狙って降りるさ。速度ならギリギリ俺たちの方が速いから、近づいてきたら逃げるだけだ」
甘い。そう判断せざるを得ない。ワームはびっしり地上に蔓延っているという話なので、逃げたところで安全な場所を見つけるのが難しい。第一包囲されたら、そこでその瞬間詰みだ。
「何が言いたいのかは大体分かる」
ヘンリーは私の表情を正しく読み取っていた。私を押さえていない方の手をぶらぶらと、体の前で振ってみせる。まるで何かを放り出すように。
「でも、どうせ生贄は俺だよ。いつもの通りなんだろ? 身寄りないやつが選ばれるんだろうさ。だったら、もういっそのこと、自分の脚で出て行った方がましだ。実はこんなことになりそうな気もしていて、既に候補になりそうな、同僚の何人かには話してみたんだが、そいつらも同意してくれた。一緒に降りることに、だぞ。何とか今回出さなければならない生贄の数には、足りるぐらいだとは思う」
まあ、何人出すつもりなんかは知らんけどさ、とヘンリーはへらへらしながら、付け加える。
「…私は、反対だ」
何とかその言葉を、自分の中から絞り出す。ヘンリーは、自分自身信じていない。自分が今話していることを。これは、自殺以外の何物でもない。
でも、この都市に住む多くの人を守るために口減らしは、どうしても必要だった。だから強く否定もできない。そんな自分がどうしようもなく無力に思える。ヘンリーはそんな私を見て、少し苦笑する。
「ま、俺たちはやるよ。…言うまでもないけどな、色々と限界が来ているのはお前だけじゃねぇんだ。ここにいたらどっちみち、体よりも先に、心の方が死んじまうんだよ」
ヘンリーの涙声を聞いたのは、この時が生まれて初めてだった。
1人、また、地上へと降りていった。
ヘンリーとその他十数名の騎士が、地上へと向かうと公表してから、話はあっという間に進んでいった。手薄になる守りはどうするか、とか、生贄の儀式は必要か、とか、些末な問題はあったが、当たり前のように度外視された。一刻も早く、都市の胃袋の数を減らす必要があったのだ。
食糧や水の生産はまだ、再開していなかった。恐らく、今後再開されることはないな、と私は踏んでいる。通路を歩くときに何度か生産班所属の者とすれ違ったが、全員一様にして顔色が悪かった。
一応、今回の名目はいつもの生贄の時と同じように、物資調達ではある。だが、地上へと向かって行く騎士たちは必ず一度都市の方を振り向いた。自分の生まれ故郷に対する、永遠の別れを告げているように見えたし、事実そうなのだろう。
恐らく、今この都市が抱える問題を奇跡的に全て解決できる何かを発見できないと、帰ってきたとしても、袋叩きにされる。噂のレベルだが、都市に残る騎士隊には既に、地上に探索任務に行った者が帰ってきても、特段の事情ない限り、撃退しろ、という命令が下っているらしい。昨日の同僚は今日の敵ということだ。
「本当に、お前も行くのか?」
横に立っているヘンリーが私に聞いてくる。
「ああ、もう私もここではやっていけないから」
「お前は神官だ。最後までこの都市に残ることだってできるだろう」
「それでも、だ」
短く返答する私を、ヘンリーは悲しそうに見てくる。何だよ、お前だってやろうとしていることじゃないか。
「神官の候補は、少ないがいなくはない。私が出て行っても、代役はいつかは出てくるさ」
それまでに全員死んでいる可能性の方が高いが。肩をすくめて、周りを見る。見物人がちらほらいる。生贄の時と違い、自分から出ていくと言ったから驚かれたのかもしれない。
全員の顔に憐れみが貼り付いている、わけもなく、食い扶持が減るからか知らないが、ちょっと笑っている人間もいる。多分今笑っているあんたも、もう少しすると餓死だぞ、と心の中で呟いておく。閉鎖された都市の中、食い物や水の奪い合い。容易に地獄が生まれる。
疲労の濃い表情。ボロボロの衣服。やつれた頬。くすんでいる。そう思った。この都市にはもう、死以外にない。全員の首に死神の鎌が既にかけられている。
「さ、俺たちも行くぞ」
ヘンリーが話しかけてくる。私は頷きで応じる。歩き出したところで、誰かがこちらに近づいてくるのを感じた。ヘンリーも気づいて、そちらの方に向き直る。右手に持っている対ワーム用の槍が少し動いた。
近づいてきたのは初老の男性で、全身震えていた。破れの目立つ服では、カバーしきれない寒さをこらえるために、身を震わせているその人は、私たちから1メートルほど離れたところに立ち止まった。
予想外の行動だったため、どう動けばいいか若干迷った。ヘンリーの方に向き直る。ヘンリーは、何これ、お前の知り合いか、と言いたげな表情になる。違うよ。通路で何回かすれ違った記憶はあるけど、知らない人だよ。
2人で固まっていると、男性は震えた状態のまま、右手を衣服のポケットに突っ込む。ポケットの中からそろそろと何かを取り出す。取り出したものはパンの欠片だった。
自分の中で相当な葛藤をしているのだろう、先ほどよりも震えがひどくなっているが、それでもその欠片を男性は、ゆっくりと私たちの前に差し出す。
「いただけるのですか?」
私は男性に質問する。男性は頷く。ヘンリーの方を見る。戸惑っている。貰うべきか、貰わないべきか、判断がつかなかった。
どうせ、私たちはすぐ死ぬのだから、そんな考えが頭の隅をかすめた。
それならまだこの男性が持っていたほうが有益だ。いただけません。どうぞご自分でお召し上がりください。そんな言葉を自分の中で、織り上げる。
「ごめんなさい」
断りの言葉を口に出そうとしたところで、男性は私たちに対して謝罪してくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
何度も何度も謝罪の言葉を積み重ねる。まるでそれを積み重ねて柱のようにすることで、罪悪感が自分を押しつぶそうとするのを止められる、と思っているかのように。
怒りは湧いてこなかった。
男性の謝罪が私の中に作り上げたのは、ただただ悲しみだけだ。一欠片のパンだが、それを誰がどう考えてもすぐに死ぬであろう、私たちに与えようとしている。自己満足だった。でも、自己満足ならば、悪いという話でもなかった。
男性は泣いていた。私達を見ながら。その表情を見て、断りの言葉を出すのはどうしても無理だった。私は男性からそれを受け取り、ポケットに入れる。少しだけ、本当に少しだけだが、男性の顔が明るくなったように見えた。貰ってよかった、と思えた。
私とヘンリーは今度こそ都市の最北端に立つ。いつも人を見送っていた場所。地獄への入り口。もうここを超えると戻れない。今ならまだ、私は神官だから引き返せる。そんなことを少しだけ考える。
(ここにいても限界なんだ…、どうせ遠からず、死ぬんだ…)
自分で自分に言い聞かせる。緊張のため、背中にじんわりと出てきた汗の感触が気持ち悪い。脚が震える。死が絶対のものだ、とこの時初めて私は自覚させられる。何もなくなり、無になる。重たすぎる現実。
「ハーバート」
隣に立っているヘンリーの声が、そんな死の闇の中にすっぽり入っていた私の意識を引き上げさせる。
「分かってる。行こう」
私がそう言うと、ヘンリーがその場で屈む。私はその背中に身を預け、おんぶの構えとなる。それと同時にヘンリーが飛び始める。そして、あっという間に都市から離れていく。浮遊感が私の体を包んだ。
(あ、これ、ヘンリーが私を背中から引きはがしたら死ぬな)
頭の中でそのことに気がつき、体が強張る。だがしかし、下手をするとこれから1時間以内に死ぬかもしれないのに、そんなことを今更心配するのもおかしな話だ、と自分を納得させる。ヘンリーは高度を落としていく。これから先に旅だった騎士の皆と合流する手はずだ。
私は振り向いて、都市の方を見る。外側から都市を見るのは、生まれて初めてのことだが、最初の感想は、無機質で、がっちりしている、構造物がたくさん用意されていて、強そうと、そんなもので、しかし内実を知っているので、どちらかというと無機質さは残酷さを表していて、強そうに見えるのは見た目だけ、という感想に落ち着いた。
もう二度とあそこに帰れない、と考えると、流石にこみ上げるものがある。耳元で風の音がひゅうひゅう鳴っている。ヘンリーが速度を若干上げていた。視界内の都市の大きさはどんどん小さくなっていく。
都市が滅ぶか、私が死ぬか、どちらが早いかと問われると、まだ後者の方だろうが、物凄い幸運に見舞われて、私がしばらく生き残れたとしても、都市の側がそうはもたないはず。だからこれが完全に今生の別れだ。
「さっき貰ったやつ、食っとけば?」
声をかけられて、向く方向を前に戻す。言葉の最後に、どうせすぐ死ぬんだから、というのが隠れているのは明々白々だ。私はそれもそうか、と思い、パンの欠片を取り出す。その欠片の更に一部を口の中に入れる。いつもの味だ。だが、怯えていた男性の中に僅かにあったものがパンの中に含まれているような気がした。
「ヘンリー」
「ん?」
「今更命が惜しくなったつもりもないけど、少しは希望のありそうなところに降りてくれよ」
「んなもん、あんのかよ」
けらけらとヘンリーは笑う。ヘンリーの背中が私の胸を数回叩いた。
「あるかどうかは知らんが、頼むよ」
笑うヘンリーに更に頼み込む。顔は見えないが、少なくとも笑いを引っ込めたことだけは雰囲気で分かった。ああ、探してみるよ、俺だって少しは希望を持ちたいと思ってはいるんだ、と返してくる。
もう一度都市のあった方を振り返る。でも既に見えなくなっていた。体の中にほんの少し熱が生まれているのを感じた。戦ってみたい、と思った。この、何もなくて、絶望的で、人に本来的に備わっている善性をすりつぶしていく世界と。
自分が怒っていることに気づく。体の中の熱はほんのりとしたものから、いっそ熱すぎるものへと変わっている。地上に近づいてきているからかもしれないが、それだけじゃないとも思う。久しぶりに人間の優しさに触れたことも、無関係ではないだろう。
たとえ数秒後にワームに食われる運命であったとしても、どんなに世界がくそったれな状態になっていたとしても、最後まで救いを求めることだけはやめない。その態度が自分を救う一つの鍵のような気がした。
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