さっちゃん

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まだ空は暗い、しかし着々と太陽は昇っていく。 健太が住む地域は喧騒に溢れていた、そして多くの車に人、建物に雑多な店。 人工物に囲まれたあの場所とは違い、彼のまわりには夏の日差しに育てられた草木しかない。 健太は何度も首を動かし、見慣れぬ土地に目を移し、そして安心した。 彼は孤独が好きだった、それゆえ寂しくて自由だ。 誰も健太の邪魔はできない、邪魔してほしくないと彼自身も願っている。 その思いと今の状況はマッチしていて、健太はほくそ笑んだ。 だが人は独りでは生きられない、幼い頃から芽吹く虚しさの萌芽が徐々に彼を苦しめていく。 自分がもしみなと同じように笑えたら……そう思う日もあった。 優秀すぎる頭脳はときに疎まれる。 馬鹿らしいが現実の話だ。 彼の体が汗ばんでいく。 息も乱れて、彼は少し立ち尽くした。 疲れた体を朝特有の澄んだ空気で癒して、袖で首筋を拭く。 「着いた……」 眼前には目的地の山がある。 この山の名前なんて分からない、名前があるのかも分からない。 なんとなく気合を入れなおして、コンクリートの道路を外れる。 畑に挟まれた道を歩いて、山に向かう。 砂を踏み、泥を蹴って。 サンダルに晒された素足に砂がかかり、不快な感触が伝わる。 引き返すという選択肢はすでにない、健太はずんずんと山を登り始めた。 山と言ってもそんなに大きなものではない、緩やかな斜面で転落しても大怪我をすることはないだろう。 それでも坂道には違いないので、健太の軟弱な体から体力が奪われていく。 「暑い……」 木々に囲まれ、陽ざしはあまり差さないはずなのに異様にこの山の中は暑かった。 カラッとした暑さではなく、湿気が充満したような蒸し暑さ。 飲み物も持ってきてない健太は少し参り始めている。 そして自分の行動に後悔しはじめていた。 「……帰ろうかな」 思えば自分がこの森に来る必要など何もない。 強いて言えば直感に従っただけだ、この山に来れば何かがあるという直感に。 しかし何もない、いたずらに疲れるだけである。 冷静に得るものがないと判断した健太は、踵を返した。 そして偶然、荒れた道のわきにある苔むした物体を見つける。 「石碑?」 健太はそれに近づき、体をかがめて低くした。 形のよい石には劣化して読み辛いが、確かに文字が書いてある。 「速記文字みたいだ……なんて書いてあるか読めない」 達筆というより下手なアラビア文字のようなくねくねしている字を見つめながら、健太は立ち上がった。 すると空は晴れているのに、細やかな雨が降り出す。 視界を奪うほどの霧雨だ。 汗でねばついた肌が濡れて、健太は腕に鳥肌がたった。 「雨……帰らないと……山の天気は変わりやすいって聞くけど、標高が低い山でもそうなのかな?……まあいいや」 帰宅の決意を固めたところで、あのチリンチリンという鈴の音が聞こえてきた。 雨が降り、さらに視界の悪い山を歩くことが危険だと健太は分かっている。 しかしあの鈴の音がなんなのかを知りたいという好奇心があった。
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