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榊原が言葉を発しようとした瞬間、聖太郎は彼の右目に顔を近づけた。そして柔らかな唇を右目の切り傷へそっと押し当てた。
榊原は始め、その行動に驚いたように左目を見開いたが、すぐにその目を細め身を委ねるように深呼吸をした。
キスで傷が癒えるなど、現実的に不可能なのはわかっている。しかし彼の口付けは優しく、まるでガーゼのように傷を包容してくれている気がして、榊原は彼に身を委ねていた。
「すぐに手当てしなければ…。」
榊原から顔を離し、聖太郎は両手を後ろに組んだ。そして鈍色の空の下に聳える工場地帯の方へ顔を向けながら、優しくもどこか冷たい声で呟いた。
「帰りましょう、私たちの楽園へ。」
楽園。彼の言葉に蓑輪は口角を吊り上げた。彼に抱えられた露斗宮は、尚も静かに眠っている。
彼らの後ろに佇む成川は、二人の背を見つめながらどこか浮かない顔をしていた。苦悩と葛藤の入り混じった視線の先には髪を靡かせる聖太郎の小さな背中。そしてその先に続く煙の立ち込めた工場地帯。
「…生徒会長。俺は一度学校へ戻ります。」
一度大きく息を吐いた後、成川は彼らの背に向けてそう言い放った。
「何だ、忘れ物か?邪魔者は始末したんだろ?」
「ああ、計画は成功だ。だが死体を野外に出しておかなければ…。俺は臭いのは御免だからな。」
金髪を掻き上げ、腕を組み、眉間に皺を寄せる。格好つけ、気取っている普段の彼がそこにはいた。
佐倉と対峙し、古村と向き合った際の焦燥していた自身を隠すように、彼は内心平静を装っていた。
「あぁ処理か。間宮の時みてぇにカラスの餌にでもすりゃあ良いだろ。」
死臭を想像し、苦虫を嚙み潰したような顔をする彼の様子に、蓑輪は相変わらずだとため息をつく。対して聖太郎は落ち着いた様子で微笑みながら成川の方へと顔を向けた。
「…わかりました、後処理は任せます。ですが早めに帰って来てくださいね。あなたにはまだ、やって貰わなければならないことがありますから。」
了解を得た成川は聖太郎に向かって軽く頭を下げた後、支えていた榊原の体をそっと校門の塀へと預けた。
「榊原、一人で歩けるか?」
榊原は歯を食いしばりながら頷いた。未だに少々痛むのであろう右目を押さえ、気を紛らわすように歯ぎしりをしているようだった。
背中で手を組み美しい佇まいを見せる聖太郎、露斗宮を軽々と抱え上げた蓑輪、塀に身を預ける榊原。三人の姿を背に、成川は再び校門の内側へと足を踏み入れた。
目の前に聳えるのは荒れ果てた町の学び舎。悪と欲に塗れた中学校。
風が彼の金髪を揺らし、薄らと赤みを帯びた頬に当たる。電柱から見下ろすカラスの漆黒の瞳には、彼がどう映っているのだろうか。それは誰も知り得ないことだろう。
成川は伏せていた目線を上げ、聳える学校を見上げる。
所々割れた窓、落書き。最上階の窓を見た時、彼の脳裏に浮かんだのはかつての間宮の姿だった。
自我が崩壊した彼を半ば無理やり投げ落とす光景。地面に頭部が叩きつけられる音。次に目にした彼の姿は、カラスたちに覆いつくされた惨たらしいものだった。啄まれた脳みそ、割れた頭蓋骨。その姿を目の当たりにした当時の成川は、そのあまりにもグロテスクな姿に顔を引き攣らせていた。
確かにあの時、彼は心の奥底で葛藤し始めていたのだ。
本当に、このままで良いのだろうか。疑念を抱いていたはずなのだ。
しかしそれを打ち消すように毅然とした立ち振る舞いを見せ、生徒会としての役目を全うすることを誓っていた。自分の信念を貫き通そうとしていた。自分だけを守ろうと、自分を偽り続けていた。
今、その思想が完全に打ち砕かれた時。彼は薄暗い校舎の中へと一歩足を踏み入れた。
やがてその様子を天から眺めていたカラスは立派な両翼を広げ、濁った空の先を目指し飛び立っていった。
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