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陽だまりの中、四本の手が鍵盤に乗せられる。優しい音色が響き、音に交わるように暖かい風が吹く。
まるで二人を祝福するかのように囀る小鳥たち。ドレスのように揺れるカーテン。二人だけの特別な空間は幸福に満ちていた。
隣を見ればそこには微笑む一人の人間。純白のワンピースに身を包み、長い黒髪を風に靡かせる乙女のような。しかしどこか少年のような凛々しさも持ち合わせた不思議な存在。
青春に魅了された少年が彼に笑いかけた瞬間、意識は再び暗闇へと放り出された。
「佐倉…っ、ねぇ佐倉…!しっかりして!」
肩を揺すられる感覚に気づいたと同時に、佐倉の意識は現実へと引き戻される。
重い瞼を開け、徐々に広がってゆく視界。闇の奥底へ遠く離れていた意識が、光の灯る現実へと辿り着く。始めに見えたのは黒い学ランだった。それが壁にもたれ気絶していた自身の膝元であることに彼が気づいたのは、意識を取り戻してから十秒ほど経った後であった。
「ねぇちょっと、大丈夫?」
項垂れていた顔を上げると同時に聞こえた声。どこか懐かしくも感じるその声の聞こえた方へ目をやると、そこには傍らに座り込む雛杉の姿があった。
白い手が佐倉の肩を掴み、困惑と心配に揺らぐ瞳は彼を見つめていた。
青白く仄暗い蛍光灯の明かりさえも届かない階段の陰。ゴミの臭いを紛らわすように、佐倉は自身の鼻を何度か擦った。
「…雛杉…。お前、無事か?」
「え…?無事って…?別に何もないけど…何が?」
佐倉の口から放たれた第一声に、雛杉は更に曇った表情を見せる。
その様子から彼が無事であることがわかり、佐倉は彼とは逆に安堵の顔でため息をついた。
それから彼はスタンガンを当てられた項部に残る僅かな痺れと、脳が揺れるような気持ち悪さに苦難しながら立ち上がる。
そして壁に手をつき、廊下へと続く方角、即ち雛杉の背後を見た時。
彼はそこに佇む人物の姿を見て愕然とした。
「…お前…。」
そのあまりの表情に、立ち上がった雛杉も自身の後方へと振り返る。
「ごめん、佐倉くん…。気が高ぶって殺し損ねてしまった…。」
白く美しい手は血に塗れ、口元はまるで紅を引いたかのように赤く染まっている。
宝石のような輝きを帯びながらも、どこか虚ろだった瞳は真っ直ぐと佐倉を見つめている。
二人は蛍光灯の放つ光の下に佇む古村の姿に唖然としてしまった。
「でもやっぱり、君は無事だったみたい…だね。」
二人の反応をよそに、古村は学ランのボタンを外すと、赤い染みのついたシャツを捲り上げた。
そしてズボンに挟んでいた分厚い画集を引っ張り出すと、それを床にドサリと落とした。その拍子に開かれたページには美しい天使が描かれていたが、所々に縦長の穴が開いていた。
「おい…大丈夫なのか?それ…」
佐倉は捲り上げられたシャツの奥に見えた複数の傷に目を向ける。彫刻のように滑らかな古村の腹には、榊原のナイフによる切り傷が数箇所に刻まれていた。
「あぁ…大丈夫さ…。本のおかげで傷は深くないから。でも…体に力が入らないんだ。きっと血を流しすぎたんだろうね…。」
そう言いながら後方に数歩よろめいた古村は、佐倉が駆け付ける前に二本の腕によって抱き留められていた。
「成川…。」
状況を理解できない頭で、雛杉は咄嗟にそう呟いていた。
彼の目の前には傷を負った古村を後方から支える成川の姿があったからだ。
その光景には隣にいた佐倉も混乱していた。
「お前…。」
「説明は後だ…。一先ず音楽室に行くぞ。」
その言葉に、彼の腕の中で苦しげに呼吸を繰り返していた古村は薄らと笑っていた。それは安堵とは違う笑みだった。
まるで成川の登場を予感し、その予感が当たった時のような自信と信念に満ちた微笑であった。
「その前に準備室へ。もう一人、回収しなきゃ…。」
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