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「あ……あ……」
じわじわと広がる赤黒い血液の海を見つめながら、露斗宮は開いた口から掠れた声を無意識に漏らしていた。
忙しなく巡っていた思考が停止し、脳みそを突き刺すような衝撃が走った。
全身の肌が粟立ち、指先は小刻みに震え始める。チカチカと視界が点滅し、心臓が倍以上の速さで血液を全身に循環させた。
「それは犠牲です。戦争、食料、知識、幸福、平和…。如何なるものにも多少の犠牲があり、それらは後世へ続く道にもなるんです。
わかりますか?露斗宮さん。私たちは今、数多の屍の上に立っている…。」
聖太郎は血濡れた果物ナイフを林檎へ突き刺すと、ゆっくりと立ち上がった。
影が差しても尚、その顔は天使の面影を残していた。頬を彩る血液さえも頬紅のように見えてしまうほどであった。
数歩目の足音が響いた時、露斗宮はやっと我に返ることができた。見開かれた目は聖太郎の瞳に捕らわれ、逸らすことはできなかった。
「っ…!ひっ…ぁ…な、なんで……殺し……」
震える足が無意識に数歩後退る。全速力で走り出すことは不可能だった。
幻惑されたかのように言葉を遮られ、芝生に取られた足はよろけ地面へと尻餅をついた。
「彼女は犠牲になりました。あなたへ私たちの思想を理解していただくために犠牲になったのです。」
露斗宮の心臓に杭を打たれたような衝撃が走る。
聖太郎の言葉と殺された女の亡骸が交互に脳内に映し出される。この女は自分のせいで命を落としてしまったのか、あんなことを言わなければ殺されなかったのだろうか…。彼の中に疑念と後悔が沸々と湧き上がる。
「あぁ可哀想に…。罪悪感が?後悔がありますか?不幸でしょう…?この不幸を忘れてしまいたい…そう思いませんか?」
聖太郎の手が露斗宮の両頬へと伸びる。揃えられた爪から、細くしなやかな指から血の香りを漂わせながら。
へたり込む露斗宮の元へ座り、聖太郎は彼の顔へ自身の顔を近づけた。間近で見ても尚、その美貌は健在であった。睫毛は長く生え揃い、唇は潤っていた。
頬に触れた手は次に前髪を撫でるように掻き上げ、揺らぐ瞳を曝け出させる。
「私なら、あなたの不幸を全て浄化することができます。生徒会に入ると宣言さえしてくだされば、すぐにでも幸せになれるんです…。」
「ぼ…僕は……っ」
不意に露斗宮の視界が遮られ、唇に柔らかな感触が伝わった。僅かな血の香りが鼻孔に伝わり、同時に甘美な快感が体を巡る。
上質なシルクで包まれたような心地良さを感じ、彼は不覚にも幸せだと感じてしまった。
唇の感触がなくなると同時に解放された視界。そこには世にも恐ろしく美しい天使のような少年が微笑んでいた。
「さぁ言いなさい。私は胡村聖太郎に救われましたと…。」
天井から差し込む太陽にも似た照明と温かな空間に、露斗宮は微睡みのような悦楽を感じていた。
つい先ほどまで起こっていた残酷劇を忘れてしまうほど心地良く、どこか解放されたような気分に浸っていた。
正に楽園にいるような気分であった。
「…わ…私…は…、え…胡…村……」
無意識に口が開き、彼の言葉を復唱する。
露斗宮の口が言葉を紡ぐたびに、目の前の天使は目を細めほくそ笑んだ。
「え、胡村……」
しかし露斗宮は言葉を詰まらせた。ある記憶が、彼に警告するかのように浮かび上がった。
寂れた畳の部屋、ぶらさがる照明、学ランのポケット…。
血に汚れた生徒手帳。
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