楽園

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「おいおい、正確には三人だろ?」  蓑輪の大きな手が露斗宮の肩に触れる。重く硬い手だった。 彼の吐息が耳元を掠め、露斗宮はその気持ち悪さに口元を震わせた。 震える肩を掴みながら、蓑輪は彼の耳元で低く唸るような声を発した。 「誰だっけ?あの作業員。お前の父親だったかなぁ…?」  露斗宮は全身の血の気が引くと同時に、頭の中にぽっかりと穴が開いたような感覚に見舞われた。 何も感じず、何も思えなかった。ただただ無の世界に一人取り残された気分だった。 彼らが誰のことを話しているのか、とっくにわかっていた。しかしそれを聞くまいと、彼の意識は遠ざかろうとしていた。 しかし無慈悲にも蓑輪は意地の悪い笑みを浮かべ、声高らかに言い放つ。 「すごかったよなぁ、あの顔…。刺すたびに叫んでたぜ?お前の名前だか命乞いだか知らんが、とにかく喧しかったな。だから喉を刺したんだ。」  女の死体が横たわる食卓へ戻った聖太郎は、もう一度自身の席へ座った。そしてグラスに注がれた水に指をつけ、爪にまで入り込んだ血液を丁寧に洗い始めた。 その落ち着いた仕草の裏には、蓑輪の言葉に肯定するかのような姿勢が見て取れた。 「茶化してはいけませんよ蓑輪さん。彼らもこの町のために命を捧げた尊い犠牲ですから。」  衝動に身を任せていた。  足が無意識に芝生を蹴り、食卓に並ぶ銀のステーキナイフを手にし、対面に座る聖太郎の元へ駆けてゆく。 踏みつけた血溜まりに波紋が広がり、血の珠が辺りの食材に飛び散る。  顔を上げた聖太郎の瞳には、憤怒の形相に満ちた露斗宮が映し出されていた。  振り上げられたステーキナイフが見せかけの太陽に照らされ美しい銀色に光り、その矛先は偽りの天使に向けられていた。  だが風のように素早く振り下ろされたナイフが聖太郎の顔面を掠めるほんの直前、露斗宮の体は真横に吹き飛ばされた。 横腹に走る鈍痛と共に、彼の視界には恐ろしい形相の蓑輪が映った。 芝生に倒れた露斗宮は咳き込みながらも、自身を突き飛ばした蓑輪と聖太郎を睨みつけていた。 「てめぇ…今何しようとした?」  怒りを露わにした怪物のように、蓑輪は歯を食いしばり息を荒げていた。握りしめた拳には骨と血管が浮き上がっている。 横腹を押さえ、露斗宮は恐ろしい怪物を睨み返す。恐れに勝る怒りが彼の中に殺意を生み出していた。 幾度のトラウマを植え付け、大切な人を殺され、それを武勇伝のように語る彼らへの膨大な殺意を湧き上がらせていた。 「聖、怪我は?」 「私は大丈夫です。ご心配なく。」  聖太郎は尚も落ち着いた様子で答え、露斗宮へ視線を向ける。 「露斗宮さん、あなたは踏み込んではいけない場所に足を踏み入れようとしている…。」  内臓にまで響く痛みに意識が朦朧とする中、露斗宮は彼の不気味な笑顔を睨んでいた。 そして空腹と激痛、それから頭がおかしくなりそうな悍ましさの中で遂に気を失った。 「安心してください、あなたもいずれ気に入りますよ。この楽園を。」  最後に聞こえたのは優しさと狂気に満ちたその言葉だけだった。
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