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「さて、じゃあ僕は樋口くんに食事を与えてくるよ。」
成川の答えに満足したかのような顔で古村はそっと立ち上がる。
そして袋の中からパンや牛乳を取り出すと、地上へと続く梯子の方へ向かった。
成川は彼の足音に耳を傾けながら、握った瓶を観察する。頭の良い彼はその瓶に入っているものが何なのかわかっていた。「それ」がどれほど恐ろしいものかも…。
「…友達だよ。」
「何?」
不意に聞こえた古村の言葉に、成川は振り向く。梯子に手をかけた彼の背だけがそこにはあった。
「友達さ、園太郎くんは。僕の唯一の希望だった。」
弦を弾いたようにか細い声だった。言いたくないことを何とか限界まで省略し伝えるような、とにかく後ろめたく弱い声であった。
「希望…。」
「僕の世界を広げてくれた。彼が僕を救ってくれたんだ。」
それだけ言うと古村は梯子を上り始めた。その姿が見えなくなるまで、成川はただじっと彼を見つめていた。
やがて静まり返った一人きりの地下室で、いつの間にかぬるくなってしまった紅茶に口をつける。ただでさえ濁って酷い味なのに、ぬるくなっては更に不味いと彼は苦笑した。
「世界を広げる…か…。」
成川はそっと両の瞼を閉じ、過去の記憶を思い出していた。
聖太郎が現れる前の、少々味気なかったが平穏な日々。そこには雛杉がいて、園太郎もいた。
いずれ町長になる彼と浄水場の息子である自分。「この町を良い町へ変えていこう」と子供でありながらも約束した思い出。
元から良い町とは言えなかったものの、そこに楽しい思い出はあったはずなのだ。
彼の世界は狭かったが美しく、春風のように柔らかかった。
それがあの日、広がったのだ。
胡村聖太郎と名乗る美少年。彼の手によって世界はこじ開けられた。
両の手を穴に入れ、力任せに引き伸ばす。それは無垢な少年に銃を持たせるように残酷で悍ましい行為であった。
愚かだった。残酷だとわかっていながらも、成川は彼の手を握り返してしまった。限りなく広い世界を知るためか、退屈だった人生に終止符を打つためか。恐怖に支配された本能がそうさせたのか。いずれにせよ、それで彼の世界は崩落した。
戻れないことなど疾うに理解している。だが変えることはいつだってできるはずなのだ。
「そうだな…別の世界を広げるべきだ。それでこんな腐った世界には永遠に蓋をしてやる。二度と戻らないように…。」
二度と取り戻せない過去の思い出が、成川の意志を強固にしていた。
不味い紅茶を飲み干す。最悪な後味だったが、喉につっかえた異物は流してくれた。妙に清々しい気分であった。
皮肉にも、この感情をカタルシスと呼ぶのだろうかと、成川は口を固く噤んだ。
腐った世界から脱出する準備は順調に整っていた。
ナイフ、銃、金属バット、鉄パイプ、止まった数多の時計、灯油缶。武器は余るほど用意されている。そして計画も、全てが揃っている。
決行の日まで、残り僅かであった。
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