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「古村くん。ここがアネモネの花畑なんだね…。これが…君の好きな場所なんだ…。」
花弁が宙を舞う。母なる空と大地が二人だけの空間を彩っている。
やっと古村の背中まで辿り着いた露斗宮は、彼の肩に手をかける。何の変哲もない、彼の肩だった。
「ねぇ古村くん。どうして何も喋らないの…」
肩に触れたまま、彼の顔を覗き込もうと前へ移動した時だった。
不意に、露斗宮の視界に何本もの亀裂が入った。
パキパキと音を立てながら広がる亀裂は、世界をステンドグラスのように小分けにし始める。
鮮やかな空と大地が分裂し、花々の咲く広大な草原がひび割れてゆく。その光景に露斗宮は愕然とした様子で後退った。
混乱の中、目の前に立ち尽くす古村の顔へ目を向ける。そこに佇んでいた古村の顔は、真っ黒な虚空を映し出すだけだった。
目、鼻、口の代わりにあるのは大きな黒い穴。ぐるぐると渦巻いてはどこまでも続く深淵のような穴であった。
風が止まる。アネモネの花々は一斉に露斗宮の方を向き始めた。
花弁の中心にあるのは大きな眼球。光さえも通さない黒い瞳孔が彼を見つめていた。
その瞳に数多の既視感を覚えた時、彼の頭の中に生まれた感情は恐怖だった。
夢のように理想的な世界から引きずり出される恐怖。その感情に支配されている間も、亀裂は無慈悲にも広がってゆく。
やがて彼の足元まで到達した亀裂は、ボロボロと足場を崩し始めていた。
「古村くん…!!た、助け…」
前方に佇む古村へ手を伸ばすも、そこに立つのはまるで生気のない人形。
崩れた足場の更に下に見えるのは地獄のように赤黒い空間であった。立ち込める異臭は鉄臭く、生臭い。まるで血液のようで、露斗宮は吐き気と頭痛を催した。
しかし走り出そうとした足は石のように固く動かず、やがて彼の立つ地面も音を立てて崩れていった。
「うっ…わあああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
露斗宮は断末魔を上げ、血の底へ広がる血の海へと堕ちてゆく。
闇雲に手を伸ばし助けを求めるが、その手を握る者は存在しなかった。落ちてゆくにつれ鼻の奥に入り込む鉄臭さは増してゆく。
そのうち露斗宮の脳内に耳鳴りのような轟音が響き始め、頭が割れてしまうような苦痛に彼は空中で耳を塞いだ。
「必ずしも誰かを信じなければいけないなんて、そんな決まりはない。」
轟音の中、微かな声が聞こえる。懐かしい声であった。
「どんな時だって、一番に信じるべきは自分自身だ。自分を見失ってはいけないよ、絶対に…。」
その声は確かに聞こえたのだ。どんなに大きな音に遮られても、暗闇を照らす小さな蝋燭の灯のように僅かだったが聞こえるのだ。
街路灯、雨、ナイフ、血…。情景が微かに浮かび始める。火花のように浮かんでは消え、再び浮かぶ。墜落の最中、そんなことを何度も繰り返していた。
そしてその記憶を鮮明に思い出したと同時に、露斗宮の体は鮮血の海へと激突した。
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