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彼の右手にはいくつもの赤い斑点ができていた。それが注射針の痕であることはすぐにわかった。
目が覚めてから十分ほど経過していたが、痕に痒みと痛みを伴い始めていた。その痒みが厄介で、露斗宮は歯を食いしばりながら病衣の袖をもどかしそうに握りしめた。
「…毎日、数時間おきに医者みたいな人が来るんだ。それで僕にその注射を打った後どこかへ…」
「そうか…。今の気分は?」
「良くはないよ…でも夢を見るんだ…。」
機械の音に混ざり、蒸気が噴き出すような音が遠くから聞こえる。
ベッドと机以外の家具はない殺風景な部屋。まるで牢獄のような室内で露斗宮は先ほど見た夢について語り始めた。
夢の中の光景だったはずなのに、その記憶は鮮明であった。
「夢の中はすごく美しくて…。僕がずっと見てみたかった空と花畑があって、古村くんもいたはずなんだ…。でも覚める直前、それが一気になくなってしまう…。それで最後に見るのは地獄みたいな景色で…。」
そう話す露斗宮の眼差しはどこか夢見がちでうっとりとしていた。しかしその体は汗ばみ、手足の先は小刻みに震えていた。
彼の話ぶりに成川は眉一つ動かさず、暗い面持ちで耳を傾けていた。露斗宮の様子に納得し、どこか扱いなれているようにも見えた。
「あの世界は本当に綺麗で楽しくて…まるで…」
「まるで楽園、か?」
成川の言葉を最後に、場は静まり返った。
楽園。確かにあの場所は楽園だった。しかし、楽園という言葉と共に露斗宮が思い出していたのは現実の一幕だった。
偽物の楽園。全裸の男女、豪華な食事。林檎、鮮血、ナイフ、殺意…。すっかり忘れていたトラウマが甦り、彼は再度頭を抱え蹲る。
恐怖が増していくと同時に、あの草原が恋しくて堪らなくなっていた。今すぐにでも行きたい、もう一度あの本物の楽園へ行きたいと体が本能的にあの世界を求めていた。
そんな露斗宮を尻目に、成川は机の上に注射器と共に置かれていたバイアル瓶を手に取る。
「…幸い、お前が打たれているカタルシスはかなり薄いものだ…。濃度が高ければ最悪の場合、一回の摂取で自我が保てなくなる。幻覚を夢と勘違いできるならまだ軽い方だな…。」
成川は瓶をポケットに仕舞い、代わりに別のバイアル瓶を机に置いた。それは一見、先ほどの瓶と全く同じ透明な液体で満ち、同じラベルを巻かれたものだった。
それから彼は項垂れる露斗宮の肩に触れ、そっと耳元で囁いた。
「良いかよく聞け、明日だ。明日、俺たちはお前をここから連れ出す。」
髪を掴み、恐怖に震えていた露斗宮は微かに聞こえたその言葉に顔を上げた。
「薬をビタミン剤とすり替えた。だからもうカタルシスは打たれないが、代わりに禁断症状が出始めるかもしれない。良いか?明日まで耐えろ。明日になったら古村と金髪にも会える。」
成川は憑き物を落とすかのように露斗宮の背中を軽く叩いた。
いつもの露斗宮であればその仕草は不快極まりないものに感じられたのかもしれないが、今だけは僅かに解放された気分だった。
成川が部屋から去り、辺りは再び機械の音だけが響く不気味な空間と化す。
しかし露斗宮の心の内には蝋燭のように僅かであったが、希望と自由への兆しが見えていた気がした。
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