五分五分[R2]

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ホールに後半戦開始のアナウンスが流れ始めた。 観客が少しづつ自分の席へと戻りつつある。 後半戦の最初の試合は新人王決定戦が組まれていたのだ。 総合格闘技クロスロードの年間最終興行、後楽園ホール。 しかし観客は、いまだ前半戦の最後の試合の余韻を引きずっていた。 今年の格闘技界の台風の目、キャノン須藤の豪快なKO勝利。 相手は峠を越えたベテランとはいえ、元チャンピオン。 その選手を打撃のみで秒殺してしまったのだから無理もない。 観客は次のスターの誕生を確信してしまったのである。 そして後半戦の目玉の一つ、新人王決定戦。 この試合には須藤に唯一、土を付けた選手が登場してくる。 小林邦英、無敗で新人王決定戦に上ってきた。 だが、その地味なファイトスタイルの為に人気は今一つ。 それ故に、この試合も全く盛り上がってはいなかった。 対戦相手の横山はケンカファイトで人気の選手。 だが小林が、そのスタイルに応じるとは思えない。 観客の期待は横山に集中していた。 その横山は控室で試合開始を待っていた。 自分もセコンドも、それほど緊張していない。 寧ろ余裕さえ少し漂ってきている。 「横山、絶対に距離を詰めるな。  打撃だけで充分にポイントが取れる筈だ。」 「そりゃそうでしょ、あんなガードのヤツなら楽勝っすよ。」 「しかし、あの須藤が一本取られてるんだぞ。」 「オレは自分から取れせには行かないっす。  あれはマグレで、たまたまでしょ。」 横山はセコンドに吐き捨てる様に言った。 「そりゃそうだが、気を付けるに越した事はないからな。」 「…負けたくない気持ちは、オレの方が上だから。」 横山は、もう一度吐き捨てる様に呟いた。 そして両手のオープンフィンガーグローブを力を込めて合わせる。 「コバ、お前なら出来るぞ。」 「…。」 セコンドの藤原会長が小林に声を掛ける。 小林は黙ったまま頷いた。 須藤との無敗同士で組まれた激戦を、かろうじて制した。 だがマスコミや観客の小林に対する評価は変わらない。 …地味な実力者。 (お前なら出来るぞ…、か。) 小林は対戦相手の横山の試合スタイルが好きではなかった。 ガチャガチャした打撃でポイントを取ってアウトボクシングに徹する。 派手なパフォーマンスを取り入れて観客の受けは良い。 喧嘩は喧嘩でも、観てる人がいる前提でのケンカであった。 (だから負けたくはないな…絶対に。) 全く外からは見えない闘志が、彼の内側に満ちてきていた。 小林は両手のオープンフィンガーグローブを、静かに握り締める。 場内が暗転して、大音量でヒップホップが流れ始める。 対戦相手の横山のテーマ曲だった。 拳を突き上げながら観客の間を通り抜けていく。 大声援の中をリングへと上って行った。 (クソッ、何でオレが赤コーナーへ先に入場しなきゃいけないんだ。) 横山は無敗のニューフェイスの一人だった。 同階級の須藤との対戦が組まれる前に、小林を挑発した。 小林が唯一、須藤に黒星を付けた選手だったからである。 (小林を倒して新人王を取ってから、須藤とやれればいい。  そうすればワンランク上に行けるだろう。) 横山は腹を立てていた。 彼の計画通りなら、本当は須藤と新人王を争いたかったのだ。 (最低でも新人王、出来ればKOしてアピールしてぇな。) 横山はKOで勝って、須藤を逆指名する予定であった。 その為にも絶対に負けられない試合でもある。 コーナーにもたれ掛かった彼は、対戦相手の入場方向を睨む。 打って変わって静かな曲が流れ始める、小林の入場曲だ。 割と荘厳なテクノサウンドだがメジャーな楽曲ではない。 それ故に観客の反応も今一つ、そして小林が入場口に姿を現す。 まばらな拍手の中を、まるで残業をするかの如く歩いてきた。 青コーナーに立った小林は、横山に視線を向ける。 その視線が横山の視線とぶつかった、そこで試合は始まったのだ。 お互いの思惑は違っているが、試合に対する思いは同じである。 …負けたくない。 リングアナウンサーにスポットライトが当たる。 いよいよ新人王決定戦が始まるのだ。 観客の興味は勝敗よりも横山の暴れっぷりに傾いている。 そして横山も、その雰囲気については感じ取っているのだ。 もう既に、荒れた試合になるのは約束された様なもの。 (勝つのは当然として、叩きのめしてやる。) 横山の瞳の奥の瞳孔が開き気味になり、殺気が宿ってきた。 自分に向けられている視線の変化を小林も感じ取る。 (これはインファイトに持ち込めるかも知れないな…。) 本格的な打撃を習得している訳ではない小林。 レスリングも同様でタックルにも自信は無い。 練習では打撃に苦しめられ、レスラーのタックルに転がされてきた。 MMA以外の格闘技経験を持っていない。 ナチュラルボーン総合格闘家である。 だが小林は無敗で此処まで勝ち上がってきた。 豪快に勝てはしないが、地味に負けてもいないのである。 リングの真ん中に進んだアナウンサーがマイクを握った。 ジャングルへと誘うコールが始まる。 「赤コーナー、ガルーダ格闘ジム所属…横山ぁ~信充ぅ~。」 横山は小林に向けた拳で首を刈るポーズを決めた。 観客には大受けである。 「青コーナー、藤原ファイトクラブ所属…小林ぃ~邦英ぇ~。」 コールを受けた小林は四方に小さく礼をした。 そして首に巻いていたリードを外してコーナーへ向かう。 観客の殆どは、そのパフォーマンスを勘違いして捉えていた。 それを鎖から解き放たれる事だと受け取っていたのである。 だがそのリードは、以前に小林が飼っていた犬の物だった。 小林の一番大切な物である。 それを命を懸けるリングのコーナーポストに掛けた。 両雄がリング中央に向かって収斂されていく。 …フェイスオフ。 横山の眼は炎の様に燃えていて、殺気が帯びている。 須藤とは違った筋肉粒々の鍛え上げられた身体が黒く焼けていた。 まるでギリシャ彫刻の様な肉体美、説得力が在る。 小林の眼は氷の様に醒めていて、達観している様な眼差し。 筋肉の上に薄く張られた肉体は色白で格闘家とは思えない。 少し瘦せている身体からは、強さの要素が見当たらなかった。 二人が向かい合うと強弱が歴然としている様に見える。 勝敗が余り観客の興味を引かないのも、仕方のない事だった。 だが小林は全く臆してはいない。 レフェリーの注意を聞いてから互いのコーナーへと下がる。 二人の背中から、見えないバックファイヤーが吹き出していた。 カァン。 ゴングが鳴らされた。 勢い良く跳び出したのは横山の方である。 初っ端から打撃で押し込んでいく、いつもの彼のスタイル。 だが身長の割に長いリーチを活かして距離は取ったまま。 間合いを詰め過ぎず、小林に打撃を的確に当てていく。 (いつもより、多少は前のめりだな…。) 横山のローキックを受けながら、小林は円を描く様に移動した。 (小林…、逃げ始めたな。) 横山は少し距離を詰めてジャブ気味のパンチを混ぜだした。 ガードの上から、その打撃の威力を測る小林。 観客のボルテージが少しだけ上がる。 その声援を後押しに、打撃の威力を少し増す横山。 パンチを打つ手に力を込め始めた。 (やっぱり予想通りだな…、須藤ほどの圧力は感じない。) 横山が、また少し距離を詰めつつパンチを打ち続ける。 小林は廻りながら、その威力を殺しつつ打ち返す。 一進一退から、やや横山が優勢に見える試合展開となっていく。 色白の小林のボディは、打たれた箇所が赤くなっていっている。 その範囲が徐々に拡がって、紫に変色する所も目立ってきた。 (こいつ本当に須藤に勝ったのかよ…、全く手応えが無いじゃねぇか。) 「コバ、ガードばっかりじゃ判定で持っていかれちまうぞ!」 セコンドのゲキが小林の耳に届く、だが彼は態勢を変える事は無かった。 こめかみから瞼の付近も赤味を帯びてきている。 ガードはしているものの圧倒的に打たれ続けていた。 (そう味方に見えてるって事は、計算通りかも知れないな。) 「3分経過、3分経過。」 リングアナの声がホールに響き渡る。 その後も試合展開は変わらず、3分間が過ぎていたのだ。 横山はキックボクシングからの転向組である。 身体には3分間のスタミナが染みついていた。 (3分経ったか…、良し。) 明らかに横山の打撃からは勢い程の威力が感じられなくなっていた。 それでも彼が優勢なのは変わらない様に見える。 だが観客に見えない所で、少しづつ状況は変化していた。 いや、小林が確固たる意志を持って変えていったのである。 身体が打撃で赤く変色していったのと同時に、少し手数を減らす。 横山の2に対して小林の返しは1の割合であった。 渾身の一撃に見せかけたタックルも直ぐに切らせたのだ。 ずっとアップライトの態勢を維持している横山にはタックルは遠い。 ヘタをすればカウンターで膝蹴りを貰いかねない。 その危険を冒してでも、小林は餌を撒き続けていった。 「4分経過、4分経過。」 アナウンスを聞いて小林は、もう一度覚悟を決めた。 瞬間的に前回の須藤戦を思い出していたのである。 態勢を崩した小林に須藤は得意のタックルを仕掛けてきた。 その本能の攻撃を繰り出す瞬間に、理性的な隙が出来る。 小林は、その瞬間を逃がさずに捉えてチョークを極めたのだった。 それを純粋な打撃系の横山に置き換えてイメージしていたのである。 寝た状態になってしまえばマウントパンチ以外の打撃は打てない。 マウントを打つには身体を乗せなければならないのだ。 …つまり密着しなければならない、って事。 試合直前の特訓では、その状況に対応する練習を重ねてきた。 考える以前に身体が反応するレベルまで、反復練習をしたのである。 仕掛けが見抜かれれば、後はマウントパンチの餌食になるだけ。 元キックボクサーのマウントパンチなら、良くて失神だろう。 だが小林は不思議な位に自分を信じていた。 ジムの会長の藤原の言葉を、同じ位に信じていたからだ。 (「打撃にまぐれ当たりは在るが、関節技にまぐれ極めは無い。」) 小林が打撃よりも関節技のスパーリングを好む理由が、この言葉。 横山に勝つ為の作戦は、彼の頭の中だけに在った。 (打たれ続けてダメージが蓄積してダウンした様に見せる。  これは弱そうなボクにしか出来ないだろうって。) 横山のパンチがガードの上から撃ち込まれていく。 連続して打たれたパンチの中で強めの威力を感じた、その時に。 小林は態勢を崩した。 「コバ!、コバぁ~!」 「チャンスだ横山、行け~っ!」 観客の完成が後楽園ホールを支配していく。 それは須藤の試合と同レベルの盛り上がり方だった。 (やっぱり小林なんて大したタマじゃないぜっ。) ダウンではないが、それがダメージによるものなのは明らかである。 横山の口角が、ほんの僅かだが上がった様に見えた。 (横山のヤツ、…笑ってやがる。) そう思いながら小林は瞬間的に尻餅を突いた。 リングの中央付近だったのでマウントを取り易い。 横山は急いで小林に身体を乗せようと近付いた。 「横山、取れっ!」 「コバ、逃げろコバ!」 おそらく横山は普段、この態勢のマウントを取る練習をしていない。 そもそも試合でも、この状況は珍しいからである。 彼は脚を小林の身体の近くに付けて、態勢を預けて来た。 そのままマウントポジションを取るつもりだったのだろう。 (乗っかってきたっ!) 小林はマウントを取られない様に微妙に身体を半身にして避ける。 背中を横山に向けたのは、ルールで後頭部は殴れないからであった。 (くそっ、殴りづれぇなっ。) 横山は体重を預けながら、両手を振り回し顔の側面を狙ってきた。 小林はパンチをガードしながら身体をずらして避けようとする。 横山は、より重い打撃を加えようと上半身を起こした。 そして腕を最大限に振り被った…、その時である。 小林と横山の身体に隙間が出来た。 (今だっ。) 小林は横山の、もう一方の手首を掴んだ。 右足を横山の両脚の間に入れ、左足を脇の下に差し込む。 そして身体を回転させて横山の態勢をを引っ繰り返す。 優勢だと油断していた横山は、いとも簡単に転がされてしまった。 その瞬間に宙に浮いた横山の左足を両足で挟む。 そのまま両手で脚を掴んで固定しながら伸ばしたのである。 …膝十字。 「ぐあっ、あああっ!」 カンカンカンカンカン! 横山は叫びながらタップしてしまった。 その瞬間に鳴り響いたゴング、湧き上がる観客の歓声。 両陣営のセコンドは、全く同じ様に呆然としたままである。 「勝者、小林っ。」 レフェリーが小林の手を挙げた。 横山は膝を押さえたまま、呻き続けている。 (これは、ボクにしか出来ない勝ち方だったな…。) インタビューをしようとマイクを差し出すリングアナ。 ところが、そのマイクが目の前でひったくられた。 「小林選手、新人王おめでとう。  来年早々、オレにリベンジさせてくれやっ。」 それは小林に無敗をストップさせられた須藤であった。 「ありがとう須藤選手、…ボクはいつでも構わないよ。」 マイクでアピールしながら小林は思った。 (そんな強くて人気も在るキミを返り討ちにする。  …ボクにしか出来ない事。)
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