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次の日は天気予報の通り、昼過ぎから大雨になった。馬褒はビニール傘を持って事務所を跡にする。その後ろ姿を見て雨瀬はやはり、嬉しそうに微笑んでいる。
「え、馬褒さん、なんでいるの?」
学校帰りのまどかは制服姿できょとんと立っていた。やはりその姿だと大人っぽい彼女も、年相応の女の子に違わない。馬褒が昨日彼女の父親とその恋人に会ったことは既に彼女に知らせていたが、その上で馬褒は彼女に、一つ話しておきたいことがあった。
「今日の夜もあの人が来るんでしょ?」
馬褒のその言葉に、まどかは一瞬だけ息を強く飲み込んだ。
大雨が馬褒とまどかの傘に大きな音を鳴らし続けていた。ぱつぱつと降る雨の音が大きくなる。
「そうですね。今日はどうせお父さん仕事で遅いと思うんで、あの人と二人で夕飯でも食べるんでしょうね」
まどかは実に剽軽な、若者らしく豊かな表情でそう言った。上がった口角と、緩んだ目尻。彼女のその二つの動きを、馬褒は確かに見据えている。
「馬褒さんやっぱりあの二人に会ってみて改めて馬鹿な奴だって分かったでしょ~? ホントに最悪だから早く自立させてよね~!」
「自立じゃないでしょ、あなたがしたいのは」
馬褒はまどかの目を真っすぐに見てそう言った。
刹那、まどかは、持っていた傘を落とした。
冷たい雨が彼女に激しく振り付ける。
それでも馬褒は、泣いている彼女の力になりたいと思っている。
「私たちに協力させて?」
馬褒は努めて優しくそう言うと、まどかは目頭を押さえたまま、小さく頷いた。
*
「遅い!」
「ごめんなさい」
黒音はまどかが帰って来るなり、彼女の髪を掴み上げて声を荒げる。黒音の目は穏やかさとはかけ離れた、鋭い黒に染まっている。
「本当に邪魔な娘」
黒音はまどかを力強く突き飛ばす。まどかは床に座り込むと、ポケットのスマホを落とさない様に右手で抑えた。
「あんたさえいなければとっとと結婚できるのに」
黒音は低い声でまどかに言葉を浴びせ続ける。
扉が閉まってしまえば、大雨の音も聞こえない。それは同時にこの家の中の音も、外には漏れないということでもある。閉鎖された空間に、いつものように二人きり。
けれどその日は、まどかは黒音を、力強く睨み返した。
「何よその目は、殺されたいわけ?」
黒音が再びまどかに手を上げようとしたその瞬間。
大きな音と共に、玄関の扉が、開いた。
まどかと黒音が振り返れば、そこには馬褒と雨瀬と、彼女の父親が立っている。
「いやーすみませんね! うちの馬褒がどうしてもおたくのまどかちゃんの事が気になっちゃったみたいで! でも悪く思わないでくれよ! 俺たちは正義の味方でも何でもない。ただ、悪縁をぶった切りに来ただけだ」
雨瀬は獣のように微笑んだ。その横で一ノ瀬徹は耳もとに当てたスマートフォンの通話を切る。同時にまどかのスマートフォンも、通話が終了した。
「……黒音、これはどういうことだ?」
徹は鋭い声色で黒音を問い詰める。言い訳のしようもないことは、この場の全員が既に理解していた。
「なんで……仕事は?」
「娘より大事な仕事はない!」
馬褒はそっとまどかの前で膝をつくと、彼女の髪を優しく撫でた。馬褒の手のひらの暖かさに、彼女はまた涙を流し始める。馬褒は慈悲深く微笑んだ。まるで雨あがりのようだった。
*
「まどかちゃんのお父さん、あの女と別れたみたいです。お父さんの前では良い恋人、将来の再婚相手を演じてたみたいですけど、自分より一回り若いまどかちゃんを激しく妬んで、執拗に嫌がらせをしていたみたいです。まどかちゃん、お父さんが幸せなら自分が家を出れば解決するから良いって、本当に馬鹿なんだから。そんなことお父さんも望んでないのに」
「馬鹿でいいのさ。そういう馬鹿な誰かが今日も笑っているのをさ、俺はただ知っていたいだけなんだ」
雨瀬は馬褒のほうを見ずにそう言った。彼のまっすぐな言葉は、彼の背中越しに馬褒に届いた。沢山の縁にがんじがらめの誰かのために仕事をしたい。そういう彼の懐の深さを、もう馬褒は既に知っていた。
「なんだか私、感情移入しちゃいました、まどかちゃんに。きっと自分に出来ることを精いっぱい考えたんだろうなって」
「ああ、お前も確かに馬鹿だったな」
ははっ、と雨瀬が高々と笑う。赤く染まった髪がゆっくりと揺れた。
まどかは大事なものは果たして守られたのだろうか。その本当のところは馬褒には分からないでいる。自分は正義の味方ではないから、正しいことをしているのかは分からない。でも彼女に寄り添ってあげたいと思った気持ちは本物だ。
「そんなことないです」
馬褒はそう口にしながら、照れたように笑みを浮かべた。
外を見ると、ぱちぱちと鳴る大雨は、もうとっくに過去のものとなっている。
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