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始まりはいつでも遅くないさ
暑かった夏も終わり、雲一つない秋晴れの平日。丸いアナログ時計が10時を指し示す。ダイニングテーブルを前に、1人のお爺さんが白髪の頭をポリポリとかきながら新聞を読んでいる。
その新聞記事には『錦選手グランドスラム制覇』の文字。そのテニスの記事に、お爺さんはさっとページを捲り、見なかったことにする。
このお爺さんの名は年寄 義政(としより よしまさ)。今年、65歳。仕事は定年退職し、趣味もなく退屈な毎日を送っている。
そんな日常を送っていた義政にピロンっとテーブルのスマホが鳴った。義政は読んでいた新聞をたたみ、スマホを手に取ると慣れない手つきで画面を開く。
珍しく義政宛にメールが届いたようだった。
件名には『兄者とまたテニスしたい』と書いてある。送り主は義政の双子の弟、年寄 頼光(としより よしみつ)だった。
──この年でスポーツなどできる訳がない。
義政はそう思いながらも、メールの文面に目を通した。
『兄者へ。我は本年の緑色演舞(エメラルドワルツ)の大会を幕切れに、緑色演舞(エメラルドワルツ)から足を洗おうと思っておる。我の体は闇に侵され、あと一年も持たぬようだ。兄者、良かったら我の最後の戦を見届けてくれぬか?』
この文面を見て頭を抱える義政。このメールからわかるように義政の双子の弟、頼光は、この歳(65歳)で中二病なのだ。
ちなみに緑色演舞(エメラルドワルツ)はテニスのことである。
義政は深いため息を吐く。
──あの中二病、まだ治っておらんのか。
……でも最後くらい見に行ってやるか。しかしあのテニス馬鹿が本当に引退するのか? まあ、それも会えばわかる。
義政は思考を巡らせながら、重い腰を上げた。
***
秋に入ってすぐの過ごしやすい気温の中、鰯雲が空一面に広がっている。
会場のテニスコートには沢山の人が見に来ていた。
──こんなに人が来るものなのか。
義政がそんな事を思いながら歩いていると、義政と全く同じ顔のお爺さんが歩いてくる。違うのは膝と腕を包帯でぐるぐる巻きにしているところだろう。
「兄者! 来てくれたのか!」
そのお爺さんは義政の双子の弟、頼光だった。
義政はその姿を見て、心の中で叫ぶ。
──近づくな! 知り合いだと思われるではないか。まだこんな格好をして……。これだから今まで見に来なかったんだ。
しかし、義政の祈りも通じず、頼光は嬉しそうに義政の元に駆け寄る。
義政は一刻も早く話を終わらせる為、仕方なく話し始めた。
「頼光(よりみつ)、お前が引退すると聞いたから、最後くらいは見てやろうと思ってな」
義政のその言葉に頼光は小首を傾げる。そして少し笑いながら話す。
「よりみつ? 兄者、忘れてしまったのか?」
頼光は右手を天に突き上げて、声を張り上げる。
「我名は頼光(ライコウ)! 偉大な兄者である年寄 義政(としより よしまさ)、その双子の弟、ライコウである!」
誇らしげに言う頼光。すると、周りの人が一斉にこちらを向き、視線を集めた。
その刹那、頼光の腹に閃光が走った。
その閃光の正体を知るのは、それを起こした張本人の義政ただ一人だ。
義政は現在まで生きてきた人生の中で、間違いなく一番早い右ストレートを打ち込んだ。
「グハッ……」
頼光は何が起きたのか全く分からず、お腹を押さえて屈む。
頼光の腹を光の速さで殴った張本人は、白々しく演技をする。
「大丈夫ですか! このお爺さん、急にお腹を押さえて……」
義政はそう言って頼光の肩を組み、人の少ない方へと歩いていく。
義政は周りに人がいないのを確認すると、先程の事が幻だったかのように、笑顔で話し始めた。
「そういえば弟や、なぜ引退を決めたんだ?」
義政のその態度に頼光は疑問を持っていたが、引退という言葉に一瞬顔を曇らせる。
「1年後に我は生まれ変わるのだよ。だからこれがファイナルなのだ!」
──1年後? メールにもそんなこと書いてあったな。
義政は一年後に何かあるのかと、疑問に思い聞いた。
「一年後に何かあるのか?」
すると頼光はすぐさま答える。
「そうだ! 我が魂が解き放たれ、生まれ変わるのだよ!」
「お前、まさか……」
義政はそこまで言いかけて、やめた。
──もしや、再発したのか。しかも後1年……。
義政は分かりやすく、重い表情をしていた。
「兄者、そんな顔しないでくれ。今回は兄者に緑色演舞(エメラルドワルツ)の楽しさを、思い出してもらうために呼んだのだから」
その言葉を聞いた義政の顔は一気に不愉快そうになった。
「だから、テニスはもうやらないと言ったはずだ」
「でも!兄者──」
義政はすぐに頼光の言葉を遮った。
「テニスなんてこの歳でやるもんじゃない。現実を見ろ。ちょっと転けたら骨折。少し階段を登っただけで息が切れる。筋力もない。体力も、若さも、視力も、何にもないんだ。もう無理なんだよ」
──私はテニスが嫌いだ。本当はもう見たくもない。年齢的に始められないというのは言い訳に過ぎない。自分でも、理由は分かっている。
多分、弟だ。単純なよくある挫折の一つ。先にテニスを始めた私を、すぐに弟が抜き去っていった。ただ、それだけの事……。……なのに。
しかし、頼光は食い下がらない。
「でも、我の試合を見に来てくれたではないか! 絶対に優勝して、兄者に楽しさを思い出してもらう!」
この頼光の言葉は、義政にとって嫌味にしか聞こえなかった。
──何が楽しさだ。誰のせいで、テニスが楽しく無くなったと……。
義政がそんな事を思っていると突如、義政と頼光の間を背の高い若い男が突っ切った。
義政と頼光は驚いたものの、ぶつからないように一歩さがって避ける。
しかし、男は謝ることも、振り返ることもなくそのまま通り過ぎて行った。
──何だあの礼儀の成ってない若者は!
義政が怒り心頭に発する中、頼光はその男を見て声を荒げた。
「綾小路! あやつもこの大会出ておったか!」
そんな頼光の言葉を聞いて、冷静になった義政はすぐ聞き返す。
「あやのこうじ? もしかして知り合いか?」
頼光は兄の疑問にかくしゃくと答える。
「そうだ兄者、よくぞ聞いてくれた! 綾小路は我の因縁のライバル。あやつが大会に出るたび、我は負けてきた。しかし! 今回こそ、あやつに勝って優勝して見せるぞ!」
リベンジに燃える頼光を横目に義政は男の後ろ姿を見る。
服装はグレーのパーカーを着ていて、足はサンダルを履いている。長い髪は後ろで一つに纏められていて、うなじからのぞく耳にはイヤホンが付いている。身長は190センチほどもあり、痩せ型で手足がとても長い。
本当にテニスプレイヤーなのかと思うようなラフな格好だが、背負うテニスバックが言うまでもなく表している。
義政が綾小路という男の後ろ姿を眺めていた時、アナウンスが鳴り響く。
「エントリ―受付終了の10分前です。エントリーしていない選手は、直ちに本部でエントリーをお願いします」
このアナウンスの声に頼光は思い出したように慌てる。
「兄者! まだエントリーしていない故、後ほど!」
頼光はそう言い、勇足で受付へ向かった。
──もう二度と私の近くに来ないでくれ……。恥ずかしくて同じ顔で歩いておれんわ。
義政は心の中でそっと思った。
それからはあっという間だった。頼光の強さは凄まじく、決勝まで少しの危うさもなく、ストレートで勝ち上がって行く。
しかもそれまでの試合で、一切中二病を出さなかった。包帯は手足にぐるぐる巻きだったけれども……。
──流石に強いな。高校の時に全国制覇しただけはある。
義政は感心と中二病を出していない事に少し安堵しながら、決勝前の試合のコートを眺めていた。すると頼光と共に、決勝の相手がコートに入ってきた。やはりあの若い男、綾小路だ。初め見た時とは異なり、テニスウェアを見に纏い、黄色い蛍光色のテニスシューズを履いている。
──そういえばこの大会、年齢はあまり関係ないのか。
義政が一つ疑問に思っていると、すぐに試合が始まった。
まずは弟のサーブからだ。しかし、弟は何かぶつぶつと言い始めた。
「国破れて山河あり、城春にして草木深し、……」
周りで見ていた人々がざわつき始める。皆何か分かっていない中、義政だけは気づいた。
──あれは、春望か!
その日、義政は思い出した。
頼光は重度の中二病である事を……。
高校の頃、頼光が本気を出すときは春望を詠唱していた事を……。
しかし、すぐさま審判から指摘が入る。
「早く打ちなさい」
すると頼光は審判を睨みつけ、言い放った。
「貴様は我を邪魔するのか!」
頼光の言葉を聞いて周りの観客がクスクスと笑いだす。
それを見た義政は頭を抱えた。
──弟や、恥ずかしいのでやめてくれぬか。兄は同じ顔を恥じておるよ。
義政がそんな事を思っているとも知らず、頼光は続ける。
「しかし許そう! 今日は機嫌がいい。なぜなら私の偉大なる兄者が見に来てくれているのだ! 兄者は無詠唱でこの技を使える天才。見ていただいてる事を光栄に思え!」
それを聞いた義政は、持っていた鞄からそっと帽子を取り出し、深く被った。
──頼むから私を巻き込まんでくれ。私はお前のように老害と笑われとうない。今気づいたが、私がテニスをやりたくない理由は違った。挫折などでは決して無い!お前と同じ顔でコートに立ちたくない。ただそれだけだ。
義政が真理に至っていると、やっと詠唱が終わり頼光のサーブが始まった。
「……勝えざらんと欲す。オラァ!」
頼光の掛け声とともに放たれた強烈なサーブは
簡単に返され、
頼光はポイントを取られた。
「え?」
義政はつい声が出てしまった。まぐれかと義政は思ったが、その後も頼光のサーブはどんどん返されていく。
オラァ! オラァ! オラァ! と頼光はサーブを打ち続けるが、どれも際どいラインに返されて一歩も動けない。
とうとう頼光は一ポイントも取ることができずに、綾小路に一ゲーム取られてしまった。
──圧倒的強さ。弟も強いと思っていたが、まさかここまで差があるとは。やはり若さには勝てぬか。
そんな試合を見て義政は少し胸がスッとするのを感じた。
──これも経験だ。私が味わった挫折をお前も……。
義政がそんなこと考えていると、突然頼光が笑い出した。
「フハハハハ! それでこそ我がライバル!」
頼光は絶望するどころか、やる気に満ち溢れていた。これからが本番だと言わんばかりの闘志を瞳に光らせている。
それを見た義政はひどく驚いた。
──何故だ、何故頼光は諦めないのだ……? こんなにも実力差がはっきっりしていると言うのに。……何故、私と同じように諦めないんだ。
しかし、綾小路との実力差は、気合でどうにかなるものでは無かった。
一方的にボコボコにされる頼光。もはや綾小路は頼光で遊んでいるようだった。ギリギリ取れるところにボールを打ち、左右に走らせる。
頼光の足は悲鳴をあげ、腕はだんだん上がらなくなり、動機は激しくなる。満身創痍とはこのことを指すのだろう。そう思えるほどに頼光はボロボロになっていた。
──私はたわけだ。何故諦めないかなんて、分かりきったことだろうに。
勝ちたい。ただ、それだけ。純粋な勝利への願望。そんな事も私は忘れていたのか……。そのために頼光はこんなになってまで……。
けれど、義政の目の前でさらにボロボロになっていく頼光。
──違う。こんな弟を見に来たわけではない。昔のように馬鹿やりながら、楽しそうにテニスをする、中二病全開の弟を見に来たはずなのに……。
「……もういい。……やめてくれ、弟よ……」
義政は頼光のボロボロになりながらも諦めない姿に、耐えきれずに声をかけてしまう。
そんな義政の声を聞いて頼光は言った。
「止めないでくれ兄者! 我はこやつに事あるごとに負けてきた。これが最後の演舞。ここで勝たなきゃ、死んでも死にきれん! でも、こやつは強い。全てをかけなければ勝てない。 だからこの試合に全てをかける! ……もう、これで終わってもいい」
そういうと頼光はラケットを相手にむけて言い放った。
「虎穴虎子! 残りの命(じかん)全てくれてやるわ!」
その瞬間、頼光の体が薄く光だした。すると頼光の白髪が、みるみる黒くなり、若かった頃のロン毛になっていく。そして顔はシワのない、イケメン双子ペアと言われたあの時に戻り、肉体も全盛期の頃へと変わる。
※コレはあくまでそう見えているだけです。実際に若返ることは絶対に有りません。
「……!」
義政はその光景を目の当たりにし、声も出なかった。
そして頼光は先ほどまでのプレーとは別人のようになった。スピード、力強さ、しなやかさその全てが先ほどとは比べ物にならない。あれほど強かった綾小路を圧倒する程だった。
「……っくそ! そんなわけ……」
それまで余裕そうだった綾小路が初めて声を出した。
綾小路は先ほどまでのプレーが嘘だったかのように、全力で走りボールをギリギリで返していく。一球一球死に物狂いで取る姿は、まるで獣のようだった。
頼光と綾小路のハイレベルなラリーが続く。
しかし、強大な力には当然大きな代償がある。
それにいち早く気づいたのは、やはり兄である義政であった。
「弟や、待ってくれ! それでは肩が壊れてしまう! 膝も、足も、今日で寝たきりになるつもりか!」
そう、義政は限界を越えるためにセーブを外した。肉体が怪我をしないために、脳が無意識にかけている筈のものを無理矢理外したのだ。
──1年はなくとも、まだ半年は自由に動けるはず……。好きな事をしたり、自分の足で旅行に行ったり、まだ沢山のことができる。それなのになぜだ。なぜ、そこまでして……。
頼光の全てをかけて戦う姿に義政の目には涙が溜まっていた。
そんな義政の思いとは逆に、頼光は心の底からテニスを楽しんでいた。少しずつ言うことを聞かなくなる体に、苦しそうな顔一つしない。そして何より、絶対に勝つという意思があった。
──あれだけ楽しそうに……。もう、弟を止める事は私にはできない。あれだけがむしゃらにテニスをしている弟に、全てをかけて戦う弟に、辞めろなんて言えるはずがない。
義政は溢れ出る涙を拭いながら、掠れた鼻声で応援した。
「がんばれ! がんばれ! お前なら、勝てる! 絶対に勝てる!」
頼光と綾小路のラリーは長く続く。綾小路が強くボールを返すと、頼光も負けじと更に強くボールを打つ。
永遠とも思われるラリーが続く中、終わりは突然やってくる。
激しいラリーをしていた頼光は、突如膝から崩れ落ちた。ざわつく観客の中、義政は急いでテニスコートの入り口へ走る。
「頼光!」
そのまま扉を開け放ち、テニスコートに入る。
義政は頼光に駆け寄り、抱き抱える。驚くほど軽い頼光の体に、義政は年齢を感じた。
すると頼光はうっすらと目を開けて言う。
「すまない……兄者。我は勝てなかった。優勝……できなかった」
「もういい……喋るな。お前は……よくやった……。自慢の弟だ」
義政の目からは涙がどんどん溢れてくる。その顔を見ながら義政はにこりと笑い、
「ありがとう」
頼光はそっと目を閉じた。
──2ヶ月後。
あの日から義政は、高校以来のテニスを始める事に決めた。その為に病院へ通い、主治医と体調も相談を続けていた。
この日も、義政は病院へ来て、先生と話をしている。
「先生、最近は散歩もしていて、体が少しずつ動くようになって来ました。なので、そろそろテニススクールへ通ってもいいですか?」
そう話す義政に先生も頷く。
「そうですね。もうテニスを始めてもいいでしょう」
喜ぶ義政に、先生は思い出したように話し始める。
「そういえば、あなたの弟さんは動けるようになりましたよ。ただ腹部だけはまだ完治していませんが……」
その先生の言葉に義政は、疑問に思った。
「あれ? そんなにお腹の怪我、酷かったんですか?」
「はい。私もテニスであんな大怪我初めて見ました。肋骨五本の骨折と複数の内臓損傷。プロの格闘家に、腹部を本気で殴られたような大怪我でした」
その言葉にぎくりとする義政。
──もしやあの時……。
義政が心当たりを思い出していると、
後ろの扉が思い切り開いた。
「兄者!」
義政が振り返るとそこには頼光がいた。
「頼光(よりみつ)!」
義政のその言葉を聞いた瞬間、頼光は首を横に振る。
「兄者、我の名はもう違うのだ……」
頼光はそう言って真剣な表情になり、右腕を大きく上げる。
「我が名はアイザック=シュナイダー!」
──もう、発病したのか。あと一年と言っていたのに……。
義政は頭を抱える。
頼光は数年に一度、アイザック=シュナイダーという謎の人格を発病するのだ。もはや人の手に負えなくなる。
よって頼光はこの病院で監禁生活を送るのだった。
「頼光さん、お部屋に戻りましょうね」
後ろから鬼の形相をした看護師さんが出てきて、頼光の首根っこを掴む。そしてそのまま引きずるように頼光を連れていった。
「ここから出してくれ! 兄者ァァァァァァ!!」
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