それでも世界は廻る

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『お客様にご連絡致します。二十三時四十分頃停車先で人身事故が発生した為、当列車は暫くこの駅で運転を見合わせます。ご迷惑をおかけし申し訳ありません。』 何かが起きたと気づいたのは電車が停車してから五分程経った時だった。運良く座れていた私は日々の疲れからかうたた寝をしていたようだ。携帯を取り出すと彼からのメッセージが届いていた。 「今日来るの?」 なんともない質問でさえ最近は冷たく感じる。私の被害妄想だろうと頭では分かりつつも、内心は真っ黒な靄で覆われていく。 「今向かってるよ。」 付き合い初めの頃は絵文字も付いていたし文面もなんだか柔らかかった。しかし今はもう意味の無い会話もカラフルな絵文字もそわそわするような空気も無くなった。ただの連絡ツールに戻ってしまっている。既読がついても動かない画面を眺めていると深いため息が出た。 誰も口にはしないが、なんとなく重たく気怠い雰囲気が車両中に充満している。それがどこか彼が纏うものに似ていてとても居心地が悪い。彼の最寄駅までニ駅。歩くと一時間かからない程度だろうか。私が席を立つと、誰にも渡さんと言わんばかりの速さでサラリーマンがそこに埋まった。駅を出るとタクシーやバスを待つ人達で溢れていたが、それも一つ道を外れると誰も居なくなった。線路沿いを歩きながら彼へ徒歩で向かうので遅くなる旨を伝えた。十分後に来た返事は「了解」だった。 彼女が貴方の家に向かおうと深夜に一人歩いているのに。車だって持っているし、どうせ今も家でテレビを観ているのに。迎えに来ることも、道中電話をすることも無いんだね。きっとこれは私の我儘なんだよね。でもね、「迎えに行こうか」「危ないから電話しよう」その言葉が欲しいだけなの。ただ、少しだけ心配して欲しいだけなの。それすらも望めないってなんなんだろう。 ようやく一駅歩いた頃には白いパンプスの踵が赤くなっていた。お気に入りでもないのに履いてきてしまった事を後悔した。彼が好きそうだから。そんな理由で、付き合ってから半年も経たないうちに私のクローゼットは白やベージュで埋め尽くされていた。今も靴擦れで汚れようが考えていることは、彼がこれに気づいた時の事。「大変だったね」って言ってくれるだろうか。あと一駅。真っ暗な中で、か細く光る街頭を眺めながらずっとそんなことを妄想していた。 彼のマンションに着くと既に一時半を回っていた。ここまでに浮かべた色々なパターンの妄想を振り返る。彼は私にどんな言葉をかけるのだろう、期待と不安が入り混じり手が汗ばんだ。けれど部屋に入ってすぐに、私はまた自分に失望した。彼は眠っていた。それもぐっすりとではなく「寝ているから話しかけるな」というポーズをしているようだった。気がつくと私はソファーのクッションをベッドへと投げつけていた。彼に当たることなく落ちたが、ポーズをしていた彼は分かりやすく目を擦り「ああ、来てたんだ」と起き上がった。そこからの事はあまり憶えていない。私は彼のその言動に泣きながら声を荒げた。だが口を突いて出た山程の言葉に返ってきたのが「俺は来てくれなんて一言も言ってない」だけだったのは、彼の面倒臭そうな顔と共に頭にこびりついた。 暫く彼の前で泣いていたが、彼はベッドから一歩も出る事はなかった。遂に彼がまた寝たふりをし始めたので、私はもう一度白いパンプスを履いて元の道を引き返した。足と喉がズキズキと痛んだ。これで終わってしまうかもしれない不安と悲しみが脚を震えさせる。戻って謝ったほうが良いのかな。そうすればまた彼と笑い合えるかな。再び脳内でシュミレーションしてみたが、彼の笑顔が浮かぶゴールは何処にもなかった。一時的に仲直りしても、きっともう二人があの柔らかい空気を纏う事はない。いつかだと思っていたその時が来てしまったのだと確信した私は歩みを止め、その場で泣き崩れた。 終電もなく始発もないこの時間の線路沿いは静かだった。もしあの電車に乗る前にこんな風になると知っていたら、私も電車に飛び込んだりしたのかな。飛び込んだ人は何に苦しんでいたんだろう。私も死ねるなら死にたいよ。でも電車どころか車も通らない。死ねないよ。 三十分程して私は立ち上がるとパンプスを脱ぎ裸足で歩き始めた。アスファルトがひんやりとして、なんだか気持ちが良かった。この靴は捨てよう。いや、クローゼットの中の物全部を捨てよう。今度はこんな可愛らしいパンプスじゃなく自分の好きなかっこいい靴を買おう。もう、こんな物を履きたくない。 歩いた先で六時前に電車へ乗ると朝日が出かけていて、車内は昨日の事が無かったように暖かく明るかった。眩しさから目線を落とすと、履き直したパンプスの隙間から黒く汚れた足の裏が見えた。
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