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ドクター餡野の手術によって故意に殺害されたに違いない男性患者の遺体は、とうに火葬がすんで田舎の両親に引き取られていた。
高温で熱処理された遺骨からDNA鑑定を行うことは、現状の鑑識技術では極めて困難だ。だが、患者の両親から採取したDNAのサンプルを「被疑者の近親者のDNA」として当該事件の遺留品と照合することにより、1年あまり難航していた連続婦女暴行殺人事件の犯人が、ドクター餡野に殺害された男性患者その人であると、ほぼ確定した。
センセーショナルな2つの事件が思いがけない点と線で結びつくと、物見高い世間をさらに熱狂させた。
SNSのトレンドには、極悪人を人知れず処刑する「正義の殺人外科医」という"一行矛盾"が横行した。
尾萩記者は、激情に近い直感にまかせて、さらにドクター餡野の経歴を深掘りした。
どんな難しい外科手術も成功させると評判のスーパードクター餡野が、「不可抗力な術後の合併症」で患者の命を救えなかった手術は過去にも4件あった。
死亡した4人の患者の身元を念入りに調査したところ、全員が犯罪歴を持つ、いわゆる「前科持ち」だった。
そのうえ、彼らが犯した凶行に比べると、あまりに短い刑期で"シャバ"に戻ってきたと感じざるを得ないような連中ばかりだった。
『聖ラングドシャ病院』は、検察と行政の追及と処分をそれぞれ受けたが、一連の処理は事務的で淡々としたものに落ち着いた。
病院は経済的なダメージは負ったものの、さして風評に影響は受けなかったようだ。少なくとも、犯罪歴のない善良な一般市民の間では。
殺害された男性患者の身内からは、いっさい訴えは出ないまま、ドクター餡野への処遇は、日本国内での医師免許を剥奪されたのみだった。
1年後、尾萩記者は、空港の国際線ターミナルの飲食フロアにあるカフェの一角で、アイスコーヒーをすすっていた。
遠くに響く搭乗案内のアナウンスをまじえながら控えめに流れるクラシック音楽に心をゆだねて、不穏な緊張を抑えようとするつもりが、前方のテーブルに座るビジネスマン風のスーツ姿の2人組のヒソヒソ声に、いつの間にか耳をこらしていた。記者としての職業病だろうか。
「えっ? じゃあ、……玄光部長、もう手遅れなのか」
と、片方の青年が、あからさまにショックを受けた声をあげる。
もう1人の青年も暗い声で、
「ああ。気の毒になぁ。つい最近、やっと奥さんが子供を授かったって、喜んでたばっかりなのに」
「生まれてくる赤ん坊の顔も見れねぇのかよ。やりきれねぇな。膵臓は難しいって聞くけどさ、手術」
「それがさぁ。メスで体を切って開いたまではいいけど、実際に病巣を目にしたとたん執刀医がギブアップしちゃって。結局、なーんも処置しないまま、開いたところをまた縫ってふさいだだけだったってよ」
「マジかよ。ひでぇな」
「どうにも手の付けられない場所に、病巣が広がっちゃってたんだとさ」
「どうだか。"医者ガチャ"失敗したんじゃねぇの、部長?」
「やめろよ、オマエ! そういうの、ぜんぜん笑えないって」
「だよな、悪い。課長、気の毒だもんな、マジで。オレらも、いろいろ世話んなってきたし……」
「そうだよ。あんなにできた上司、めぐりあえねぇぞ、なかなか」
2人分の深いタメ息を聞きながら、尾萩記者は、チクリと胸の痛みを味わっていた。
――もしも、その玄光部長という人物が、"医者ガチャ"に成功していたら……?
そんなとりとめのない子供じみた想像をせずにいられなかったからだ。
もしも、SSR級の執刀医が彼の手術の担当だったなら、生まれてくる子供の誕生と成長を、愛妻と共にすえながく見守り続けられたかもしれない、と。
尾萩記者の脳裏にひとりでに浮かんできた"SSR級"の名医の姿は、間もなく、現実となって目の前に現れた。
端正な白い顔に穏やかな会釈を浮かべ、涼しい声で、
「どうも。ここ、いいですか?」
と、向かい側のスツールを引きながら問いかける。
「ええ、もちろん。インタビューをお願いしたのは、俺なんですから」
尾萩記者は、飲みかけのアイスコーヒーをゴクリとノドを鳴らして飲み込んでから、情けなくなるほど上ずった声をあげた。
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