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突然現れたキーパーソン
今は3月初め。今年中に刈入れをするためには、4月種まき、5月には田植えをしなければならない。
実は翌朝、朝日が昇るなり田んぼに向かった。
朝から熱心に働くつもりは無い。
近所の人がよく歩く畦道で、知り合いに出くわすのが罰が悪い。それが一日の中で最も重要な睡眠時間を削った理由。
短い距離を車で移動する理由もそれ。
田んぼに着き、実は唖然とした。
4年間の稲刈りを最後に放置されていた田んぼは雑草だらけ。一番伸びた雑草は背の高い実の腰の辺り。
よく近所から苦情が来なかったと思うが、それは周囲の田んぼの所有者も将来同じような境遇になることを危惧しているからに違いない。
実は荒地と化した田んぼを呆然と見ながら、再就職をして実家を出ることを選ぶことが賢明であると考えるが、それとは真逆の想いが映像と共に流れる。
実が小さい頃に見た、元気に働く爺ちゃんの姿。
子どもの頃、遊びの延長で手伝ったぬかるむ土の感覚が足に蘇ると、実は思った。
(もう一度、田んぼを手伝いたい。)
だけど、それはあくまでも手伝いたい。のであり、自らが主体となるには自信が無い。
諦めとやる気が交互に押し寄せる情緒不安定な表情の実を遠くから見つめるのは、涼木流唯。
最初は伺うような表情を浮かべていた流唯は、一瞬、獲物を狙う彪のように変わり、蛇にうつり変わる。
「魅力的ですね。」
低音が響き耳に心地よい魅力的な声に驚いて実が振り返ると流唯が言う。
「魅力的な田んぼですね。」
実は安堵と拍子抜けが混ざったような顔をしている。
「ここ数ヶ月間、何度もここに来ているのですが、数年は手を掛けて無いようですからね。
やはり、オーナーさんは現れませんよね?」
その言葉が田んぼに使われるのは今一ピンと来ない。
首を傾げた実に流唯が切り込む。
「二つの手つかずの田んぼのうち、どれか一つでも所有者の方を知ることができると嬉しいのですが…」
実は強い警戒心を抱く。
自分が部屋着にすっぴんと言う出立ちでいかにも自分がこの辺の住人であり、田んぼを眺めるその様子から自分が田んぼの所有者であることは知られているであろう。
全てが見通せるその場所から、静かな朝に響くエンジン音で家の場所も知られたか?
話しかけられるまで全く気配を感じなかったのも怖い。
それに一見警戒心を抱く要素を感じさせないその男は間違いなく切れ者である。
実が自らに抱いた感情を知ってか、流唯は名刺を差し出した。
〝涼木農業専門学校 講師 涼木 流唯〟
(この名前、そういえばこの人、見たことがある。)
涼木農業専門学校は新しい学校だが、その斬新な方針と農業専門学校には珍しい積極的なネット配信。それにメディアの影響もあり一気に知名度が高まった。
卒業生に有名農業ユーチューバーがいる。有名な農家レストランやカフェを営む卒業生もいる。そんな卒業生達の活躍も影響してか?
今では地元に昔からある農業大学より倍率が高い。
(でも…確か、この人があの涼木さんなら…この肩書きは妙だ。)
「もし貴方があの涼木さんなら、校長では?」
「メディアは良く僕を校長として紹介していますが、校長は形式上お金を出した父にしているんです。
お金を返すまであくまでも私は〝講師〟。 借金の担保みたいなものです。」
涼木流唯が専門学校を開校した年齢はあまりに若い。
その資金の源は何処から来るのであろう?と不思議に思っていたが、そういうことであったのか。と腑に落ちると共にそこに律儀さを感じる。
「この荒地は父名義の田んぼです。」
実の言葉に流唯の目の奥が獲物を狙う虎のように輝いた。
「一年間、田んぼを貸してください。」
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