115人が本棚に入れています
本棚に追加
二、秋の終わり、そして、冬-2
引っ越したせいで学校が遠くなった遼一は、朝食を食いはぐれてしまった。
母はもともと朝が弱く、ほんの二十分早く起きて食事の支度をすることができなかった。十七にもなって、食事を親に依存するのもおかしい気がした。これからは夜のうちに、軽いものを自分で用意しようかと遼一は思った。
どうせ将来進学したら、ひとり暮らしをするのだから、慣れるのは早い方がいいだろう。
空きっ腹を抱えていると、意識はどうもおかしな方へ向かう。
授業中遼一は、昨夜の不思議な感じを思い起こしていた。その感覚に、純香の顔をじっと眺め続けてしまった。純香には変に思われたに違いない。
何だろう。あの不思議な感じの正体は。
初めて会ったのに、昔から何度も繰り返し会ってるようなおかしな感じ。
昼間に一度作業場で、夜に母屋の玄関で会った。二度ともきつい言葉をかけられたが、このシチュエーションならどんな高邁な人格者だって毒づく。空気のように無視されるよりはマシなような気もした。
それから純香とは何度かすれ違った。
短大に通う純香は、サークルなのかバイトなのか、あまり家にいなかった。
本屋に長居して遅くなった遼一が自転車を飛ばして帰ってくると、いつも違う車から純香が降りてくるのに出くわしたり。用を言いつかって母屋のお手伝いさんのところへ行くと、そんなときに限って純香が広間への階段を降りてきたり。
純香は笑わないひとのようだった。
遼一は自分がこの屋敷にいる方がおかしいと思っているので、いつも使用人のように会釈をして通り過ぎた。
純香はときたま遼一をにらんだが、そうでないときは何の表情もなく、何を見ているか分からない虚ろな目をしていた。多分、何も見ていないのだ。目に映るあらゆるものに興味がないのだ。
遼一もそうだった。
母が喜ぶ模試の点数も、父から受け取る小遣いも、休み時間に同級生がヒソヒソ交わす艶話も、遼一の気を引くことはなかった。読みたい本が読め、生命維持に必要な栄養が摂れれば、あとはもう何も要らない。
自分の人生は、自分が自分のために何かを選ぶ生活は、すべて大学に進学し、家を出てから始まるのだ。
では、純香は?
彼女は地元の短大に自宅から通っている。彼女が自分の人生を始めるのはいつからだろう。
秋が深まり、初雪が降った。
父の屋敷に入り込んでから、母は何かとハイテンションで、近くにいると疲れる。
冬休みまでの土日を、遼一は市の図書館で過ごしていた。
図書館へはなるべく自転車で行きたいが、歩けば充分歩ける距離だった。秋から冬にかけては長雨が多く、気温が下がればみぞれになり雪になるので、自転車は使えない。徒歩だと行動半径が小さくなる。
その日遼一は徒歩で図書館へやって来ていた。
(あーあ。こんなに晴れるなら、ちょっとがんばって自転車で来ればよかった)
遼一は軽く後悔した。休憩のために図書館を出ると、午後は小春日和で暖かだった。朝は小雨が降っていたのだ。
こうポカポカと明るい日に、屋内で勉強しているのはもったいないような気がして、遼一は息抜きがてら公園をのんびり歩いてみた。
図書館は市内でもっとも大きな公園に隣接していて、近くを大きな川が流れている。街の真ん中だが、緑が多くて空気のよいところだ。
子供の歓声が聞こえた。幼稚園児くらいの子供が、ゴムボールで父親とキャッチボールをして遊んでいた。側には優しい笑顔の母親。
遼一は、父とは外で遊んでもらったことがない。誰の目があるか分からないところで、不用意な行動は避けていたのだろう。
母はストレスのせいか体調不良の多いひとで、遼一をどこかへ連れていってくれることはあまりなかった。
だが、この公園には散歩がてら何度も来た。小さな頃は、ここまで歩いてくるだけで、何か大きなイベントをこなしたような高揚感があったものだ。
緑があって水があって。こうした場所は、神経の疲れを癒やす効果がある。引越以来、さすがの遼一も疲れていた。今日は勉強をもう止めて、のんびり過ごす日にしてみようか。そう思ったとき。
目の前のベンチに、見覚えのある姿があった。
背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪が、秋風に揺れていた。
遼一は足を止めた。
淡くくすんだピンクのトレンチコートから伸びた華奢な脚が、やけに寒そうに見えた。
純香だった。
遼一は、気づかれぬうちに通り過ぎようとした。再び歩き出したちょうどそのとき、風が吹いた。あおられた髪に純香は顔をこちらに向けた。
目が合ってしまった。
慌てて会釈をし、立ち去ろうとした遼一を、純香は呼び止めた。
「遼一くん!」
初めて、名を呼ばれた。
遼一は観念して、ベンチの純香の隣に座った。
「何でこんなとこにいるの?」
憎しみのこもっていない純香の声も、初めてだった。
「勉強、してました。そこの図書館で」
「へえ。優秀ね」
「そんなことないです」
「別に謙遜しなくていいのよ」
遼一は何と答えてよいか分からず、下を向いた。
じっと黙っているのも気詰まりだった。遼一も同じように聞いてみた。
「純香さんは、ここで何をしてたんですか?」
「別に何も」
「何も?」
「そう、何も。行くとこないから、あたし」
純香の語りは抑揚がなく、無感動だった。
「行くとこって……お家があるじゃないですか」
遼一と違って。あの家は純香の家だ。純香は黙ったまま返事をしない。
「……今日は彼氏さん、いないんですか」
遼一はそう言ってすぐに、しまったと思った。嫌味に聞こえたかもしれない。純香は気にする風もなく、
「誰もつかまらないときもあるのよ」
と答えた。
純香はうっすらと笑って、立ち上がった。
「遼一くん、少し歩こうか」
歩きながら、遼一は母と自分の闖入をわびた。お母さんとの大切な思い出の詰まったご自宅に土足で上がり込んで、純香をいたたまれなくさせたなら……。
「別に、そのことじゃないのよ」
「え……?」
純香は「綿あめの機械がある」と呟いた。
純香の視線の先には、公園の売店があった。簡単な軽食と飲みものを出している、古い店だ。その店先に、腰の高さで円盤状になっている、見たことのない機械があった。
「行こう、遼一くん」
純香は駆けだした。遼一は呆気にとられたが、ワンテンポ遅れて純香に続いた。
それは純香の言った通り綿あめを作る機械だった。
お店のひとにお願いすると、一回分のザラメをくれる。ザラメを機械に入れると、細い飴の糸になって出てきて、円盤状のところにふわふわ溜まっていく。割り箸でそれをくるくる巻き取っていけば、縁日で売られているような綿あめができるという寸法だ。
飴の綿を巻き取るにはどうやらコツがあるようで、しっかり巻きつけていくとできた綿は固くなりおいしくない。ゆるくふわふわに巻いてしまうと、糸の隙間が多すぎ、大きくなりすぎで、食べるときに頬にべたべたとくっついてしまう。バランスが結構難しい。
遼一は、ああだこうだと言いながら糸を巻き取る純香の横顔を見た。楽しそうに笑っている。
このひとは、こんな顔もできるんだ。笑うとやっぱり、キレイじゃないか。
二人であれこれ言いながら、キャーキャー巻き取って食べていると、お店のひとが出てきて言った。
「あんたたち、きょうだい仲よくて結構だけど、いい歳なんだし、今度来るときは恋人とおいで」
遼一と純香が揃ってポカンとしていると、お店のひとは子供をあやすように笑って言った。
「そっくり同じ顔じゃないか。誰が見てもきょうだいって分かるよ」
帰り道は並んで歩いた。
少しだけ遠回りすると街一番の商店街に出る。遼一はおそるおそる商店街を回っていかないかと言った。純香は早く家に着きたくないのか、文句を言わずついてきた。
商店街は終日歩行者天国で、真っ直ぐ行くと駅に突きあたる。駅に近づくにつれ人出が増え、賑やかなひとだかりでは大道芸人の卵がパフォーマンスをしていた。
純香の足もその前で止まった。遼一は純香に「ちょっと待ってて」と言って走り出した。
遼一が息を荒げて戻ると、大道芸は休憩に入っていた。純香は振り返った。
「遼一くん、どこ行ってたの?」
「これ」
遼一は肩で息をしながら、小さな薄い包みを純香に手渡した。
純香はガラス玉のような瞳で包みを見た。
「何?」
「自分は地球にたったひとりで、行くあてもなくて、何だかなあ……っていう気分のとき、これを聴いて」
「CD?」
メンデルスゾーンの有名な協奏曲だった。純香がパフォーマンスを見ている間に、そこのレコード店に行って買ってきたのだ。
「遼一くん、クラシックも詳しいの」
包みを開けながら、呆れたように純香が言った。
「小さい頃、親の趣味でバイオリン習わされてたんだ。早いうちに才能ないのが分かって、解放された」
とかく金のかかることの好きな母だった。息子にかかる費用は全て父に負担させる。そうして、本妻とその子供にかかる経費を圧迫しようという腹だった。
純香はCDと遼一の顔を交互に見て、
「あんたも苦労してるわね……」
と呟いた。
最初のコメントを投稿しよう!