二、秋の終わり、そして、冬-3

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二、秋の終わり、そして、冬-3

「遼一、お父さんがね、今日は母屋へご飯食べに来なさいって」  ある日、遼一が離れの玄関を開けるなり、母はそう遼一に声を掛けた。遼一の戻るのを待ち構えていたようだった。  遼一はうんざりした。今更家族ゲームなんて、面倒この上ない。  お屋敷へ来てから、毎週末の夜は、家族揃ってのディナーと決められた。サークル活動か何活動か、忙しい純香はいつも姿を現さなかった。  週末だけでも面倒なのに、今日は一体何だろう。 「遼一! 聞こえたの?」 「……聞こえてるよ」  遼一は母のいる居間には顔も出さず、自分の居室にあてがわれた階上の部屋へ重い鞄を引きずった。背後で「聞こえてるなら、返事くらいしなさいよ」と不満そうな母の声がした。  離れの二階は遼一が使っている部屋と、広い納戸になっていた。遼一がここの生活で唯一気に入っているのが、居室にトイレとシャワーがあるところ。広い湯船に浸かって手足を伸ばしたいとさえ思わなければ至便だ。食事どき以外母の顔を見なくて済む。  遼一は特段母を嫌ってはいなかったが、屋敷に乗り込んでからの母の張り切りぶりには嫌気がさしていた。  いつになったら落ち着くのだろう。先妻のいなくなったこの屋敷に我が物顔で居座る限り、あのハイテンションは続くかもしれない。  先妻さんが亡くなってまだ数ヶ月。今は離れ住まいに甘んじているが、1年もすればあの母のことだ、母屋に乗り込んでいくだろう。  先妻さんに同情して何かと冷たいお手伝いさんたちも、ひとり替わりふたり替わりして、何年かすれば母の思うままになる。  遼一は身震いした。とっととこの家から脱出しよう。二階の居室の快適さにほだされてはならない。  遼一はそのときはっとした。もしこの屋敷が母の天下になったら。  純香はどうなってしまうのだろう。  父がついている限り、母が純香をいびることはないだろう。だが先妻憎しで多少の意地悪はしかねない。  そんなことになったら、純香は今以上にこの家にいづらくなる。  先日公園のベンチで見た純香の姿を思い出した。  何を思っていたのか、コートのポケットに手を入れて、ただ無表情に池を眺めていた純香。  存在感の薄いような、淋しげな姿だった。  自分がいなくなったあと、彼女と、母がここに残るのか。  純香も短大を卒業する。遼一は思い直した。  ここに残って母と屋敷の覇権争いをするも、就職してここを出ていくも純香の自由だ。そうなったら、あの姉はきっと出ていく方を選ぶだろう。  進学を機にこの街から脱出した遼一が、彼女と顔を合わせる機会は、もうずっとなくなるに違いない。 「遼一! 着替えたの? お父さん待ってるわよ」  遼一の物思いを母の催促が遮った。遼一はうんざりして怒鳴り返した。 「今行くよ!」  離れから母屋へ向かうだけなのに、その十数メートルのために靴を選ぶ母にイライラしながら、遼一は離れのドアを開けた。  離れの玄関から目と鼻の先に母屋の勝手口がある。そこまでならつっかけでだって充分なのに、母は絶対に勝手口からは出入りしない。寒い中遠回りして、お手伝いさんが出迎える正面玄関から出入りする。 「家族なら勝手口から自由に出入りするもんじゃないの?」  遼一はわざとそう母に聞いてみた。母の返事は、「離れにいるうちは『お客さま』よ」だった。 「家族」扱いされていない今、勝手口から出入りするのはご用聞きと同じ。父の世話係として召使いと同列になってしまうという訳だ。  聞けばなるほどという気もした。そんなことまで用意周到に考える愛人稼業の怪しさに恐れ入った。 「今晩は純香ちゃんもいるんだって」  母は遼一に目配せした。ガサツな男の自分には、母が何を伝えんとしているか想像もつかない。理解するのを放棄した。  そうか。だから週末でもないのに、夕食に呼んでくれたんだ。いつもボイコットする純香が、何の心境の変化だろう。  父は珍しく上機嫌だった。遼一と母が食堂に入ると、父はすでにワイングラスを空けていて、純香の前には陶器のカップが置かれていた。  彼らが席に着くと、お手伝いさんたちが急いで純香のカップを下げ、テーブルに食器を並べ始めた。  食事が始まっても純香はいつもながら無表情で、ほとんど言葉を発しなかった。遼一たちをにらみつけたりもしなかった。にらみつけるどころか、食事の間純香はずっと下を向いていた。  遼一と目が合うことは一度もなかった。
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