二、秋の終わり、そして、冬-6

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二、秋の終わり、そして、冬-6

 クリスマス。冬休み。正月。遼一の記憶からそうした季節の行事はすっぽり抜けている。  ただ暗い冬の夜、風に震える窓枠の音、煙突からの風にバチバチと爆ぜる古い灯油ストーブの音だけが残っている。  作業場の明かりを点けず、カンテラとストーブの炎の光に浮かび上がる純香の白い肌。ブランケットにくるまって隙間風を防いでいると、肌の奥から吹き上がる熱量。  そうして何度逢瀬を重ねたことだろう。  ついに、あの夜がやってきた。 「誰だ。ここで何をしている」  低い男の声がした。  ブランケットを引き剥がされた。いきなりの眩しさが遼一の目を灼いた。太い指に二の腕をつかまれ、ソファを引きずり下ろされた。  純香は露わになった白い素肌を曝していた。 (寒いから。純香さん、寒いから早くくるまって)  どこか現実味を失った風景に、遼一は叫んだ。  頬かどこかをぶたれたようだ。物音に何人かが駆けつけたようだ。取り囲まれて、遼一はブランケットごと作業場を引きずり出された。 「遼一っ!」  悲鳴に近い母の声がする。  遼一は母屋の納戸に、衣服とともに放り込まれた。  失敗、したのだ。  殴られた頬、引きずられたときにできた全身の擦り傷。痛みが遼一に何が起きたか知らしめた。多分、父の怒りはもっともだ。それだけのことを自分はしたのだ。  妙に現実感がない。 (純香さん……)  自分はいい。この世界は自分が長くいる場所じゃない。どうせ出ていく。だが。 「純香さん!」  遼一は外から鍵のかかった納戸の扉を力の限り叩いた。扉に体当たりした。あらん限りの力を振り絞って。声の限りに純香の名を呼んだ。 「父さん! 母さんでもいい。誰か、誰かいないのか。俺の話を聞いてくれ……!」  拳に新たな傷がついた。木製扉のささくれが刺さったのか。舐めるとしょっぱく血の味がした。 (純香さん……)  今頃純香はどんな目に遭わされているだろう。遼一は父の人柄をよく知らない。彼が姉をどんな目に遭わせるか、全く想像がつかない。もし。  もし、純香がこのままここに居づらいほどの目に遭わされたら。  一緒に逃げよう。  あの細い指を握りしめて、どこか遠くに連れていこう。  そうしてふたり、人生をやり直すんだ。  じゃらじゃらと重く自分たちを縛る血の鎖の見えないところで。  そうすれば、きっと純香も、自分の人生を思い出す。自分の気持ち、自分の意志、そうしたものを、意識の深い澱から探し出せるようになるはずだ。 「純香さん……」  遼一は扉に叩きつけた拳の上で、小さな子供のように泣きじゃくって夜を明かした。  愛しいひとの名を呟きながら。  納戸の明かり取りの小さな窓から、冬の弱い光が差し込んだ。朝だ。  しばらくすると、ガチャリと扉の鍵が開けられ、朝食を載せたトレイを差し込まれた。  母だった。  母は目を真っ赤に腫らし、「莫迦だね」と小さく呟いた。  遼一は開いた扉に突進した。母が遼一の腰にすがってそれを止めた。トレイに載せられたコーヒーのポットが倒れた。黒っぽい液体が湯気を立てて納戸の床に拡がった。  母と子は、ホコリっぽい納戸の床に倒れたまま泣いていた。 「莫迦だね」  母はもう一度言った。 「母さん……泣いてるの?」  遼一は涙で母の表情が見えなかった。 「ごめん。俺のせいだ。全部俺のせいだ。あのひとは悪くない。全部俺が悪いんだ」  だから、罰するなら全ての罪を自分に。  純香は今どこでどうしているか。自分の居心地のよいベッドで眠れていたか。ぶたれて傷つけられてはいないか。自分はいくらぶたれてもいい。殴るなら全部俺に。 「頼むから、ここでおとなしくしていてちょうだい」  母は泣きながらそう言い残して再び納戸の鍵をかけた。  遼一はそこで二晩監禁された。  さすがに退屈して、二日目は食事を運んだお手伝いさんに、離れに置いた読みかけの本を差し入れてくれるよう頼んだ。冷ややかな態度のまま、お手伝いさんは遼一の頼みを聞いてくれた。  納戸の弱い灯りと、薄ぼんやりした冬の明かりは、読書するには向かなかった。それでも遼一はページをめくった。それ以外にすることがなかったからだ。  そうしていないと、今純香はどんな目に遭わされているか、せっかく感情を表しそうになっていた彼女の瞳がどれだけ無表情に戻ってしまったか、苦しくなって息ができなかった。  翌々日の午後、冬の弱い陽が翳る頃に、ようやく遼一は納戸を出され、広間に引き出された。  許されたのではないことは明らかだった。広間には父と、母と、全く表情のない純香がいた。暖炉を模した暖房はついていたが、広間の空気は張りつめて冷たかった。  遼一はどんな判決が下されても平気な顔をしていようと、唇を引き締めて前を見た。 「お前は自分が何をやったか、分かっているのか」  苦々しく父が言った。 「あなた方は何をやってきたか、分かっているんですか」  遼一は真っ直ぐ前を見たまま言い返した。  父が勢いよく遼一の頬をぶった。経営者となって長いとはいえ、建設業で力仕事に従事してきた拳だ。遼一の身体は吹き飛ばされ壁に打ちつけられた。  痛みに遼一は壁際にうずくまった。母が哀れな息子の姿に、こらえきれずにすすり泣いた。 「行動には結果がついて回る。お前はその責任を取らなければならない」 「……もちろんです」  自分はいい。何をされてもいい。 「俺のことは好きにしてくれて構いません。純香さんさえ」  遼一は唇を噛みしめた。大きく息を吸い込んだ。そうして、言った。 「純香さんさえ、自由にしてくれたら。俺のことはどうでもいいですから。だから父さん、お願いします。純香さんを解放してあげてください」  会社のために結婚なんて悲しすぎる。いつの世の話だ。時代錯誤にもほどがある。そして、そうするのが当然だと思わされてるなんて。  遼一の言葉は父を再び激高させた。父は拳を握りしめそれを高く掲げた。母が何か叫び声を上げた。ようやく父は思いとどまり、腕を下ろした。唇を皮肉に曲げて、憎々しげに遼一に言った。 「お前がそれを言うとはな」  遼一も父の拳をガードしようと上げた腕を下ろした。広間を見上げると、すすり泣く母の隣に、純香が青白い顔をして座っていた。どこを見ているのか、虚ろな表情は変わらない。  父はふんと鼻を鳴らして暖炉の前の安楽椅子に腰掛けた。クッションがぼふと音を立てた。 「これは来月嫁にやる。式は卒業式が終わってすぐだ。お前がこれの姿を目にするのも今日が最後だ」  遼一は慌てて身を起こした。遼一がまくし立てようとするのを父が遮った。 「誰のせいで話を早めなければならなくなったと思ってるんだ。全く、新居だってまだ用意できていないのに」  この業界で生きるもの、自分の住む家はカタログ、看板だ。ひとが見ていいなあと思われる家に住まないと、入る注文も入らないのに。苦々しく父はそうぼやいた。  遼一の視覚と聴覚は、ベールに隔てられたように遠くなった。 「そんな……」  二日間で純香の縁談を進め、新婚夫婦の住処を探し、式の日取りを決めたのだ。それを邪魔させないために遼一を監禁していたのだった。  遼一は悔しさのあまり涙がこぼれた。 「そんな……」  遼一は流れる涙を拳で拭った。 「純香さん! 純香さんはそれでいいの? 自分の人生を取り戻さなくていいの? 俺と一緒にここから出よう。俺のことは嫌いでいいから」  遼一は自分の敗北を悟っていた。遼一の叫びに、純香は微動だにしなかったのだから。だが遼一は自分の想いを止められなかった。 「俺を嫌いでもいいから……、だから、純香さん、お願いだよ……」  泣きじゃくりながら、それでも遼一は叫んでいた。 「純香さん……」  広間の床は冷たかった。ぼやけた視界の向こうで、純香がゆっくりと口を開いた。 「……あんたなんか好きじゃない」  張りつめた、彫像のような冷たい表情。 「あんたがあたしを見るたびに、申し訳なさそうな顔するのがうっとうしくてたまらなかった。あたしがにらむたびに、気の毒そうにあたしを見るのも腹が立った」  遼一はいたたまれなくなって目を背けた。純香は抑揚のない声で、詠唱するように呟き続けた。 「すれ違うたびに、わたしの気を紛らわせるような言葉を探して、見つからなくて――。そうして頭を下げて通りすぎる、優しいところ……」  純香の咽がひくっと鳴った。遼一は顔を上げた。 「あたしが投げやりな気分になるたびに、あたしの気の済むまで側にいてくれて、あたしの背中をそっとさすってくれる、あんたの手のひら」  純香の目から大粒の涙が流れた。ステンドガラスの欠片のように、暖炉の火を反射してキラキラ光って頬から落ちた。 「全部、全部、大っ嫌い!」  純香はキッと遼一をにらんだ。そうして絞り出すように叫んだ。 「なんであんたなんかが弟なのよ……!」  遼一が、生まれて初めて心の底から願った、純香の感情の発露だった。 「あんたみたいな弟、……あんたなんか絶対に要らない……」  父は大きくため息をついた。母のすすり泣きが大きくなった。  結局、父の判断は正しかったのだった。  遼一は春を待つことなく家を出された。再び純香の姿を見ることはなかった。  初めて知った愛の不幸に遼一は固く心を閉ざした。  以来、誰も近づけずひとりで生きることを遼一は選んだ。家からも血の絆からも遠く離れて。  純香を連れて出ることは叶わなかった。彼女を解放する希望と引き替えに、遼一の目的は達成された。  遼一にはもう何も望むことはなかった。
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