三、雨-3

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三、雨-3

 土曜の午後、悟は買いもの袋を下げてやってきた。 「大荷物だな」  遼一は眉をひそめた。お泊まり会の準備でもしてきたかと思ったのだ。親の了解もなくそんなことを許す訳にはいかない。  悟は「お礼」と言ってちょっと笑った。 「礼?」 「うん。大したものじゃないんだけど」  悟は袋を開け、中の道具を流しで洗い始めた。コーヒーポット、専用の保存缶、計量スプーン、注ぎ口の細いホーローの薬缶…… 「遼一さん、コーヒー好きでしょ。ちょっと調べてみたんだよね」  好みは分からなくて、豆はテキトーなのを買ってきちゃった。悟はそう言いながら新しい薬缶を火にかけた。 「悟……」  湯を沸かしながら、挽いた豆をドリッパーにセットする悟の手さばきは、案外テキパキしていた。 「僕がこの部屋に来るのを許してくれて、あいつらを僕から遠ざけてくれて、英語の成績を上げてくれて」  悟は残りの豆を、買ってきた黒い保存缶にトントンと空けた。台所を見回し、ひとりで軽くうなずいて、保存缶を冷蔵庫に入れた。 「僕、何にもできないけどさ。これは何だか、面白そうだなと思ったから」  湯が沸いた。悟はストップウォッチを見ながら、慎重にドリッパーに湯を注いだ。 「化学の実験みたいだな」  遼一はそう悟をからかった。 「入ったら持ってくから。そっち行っててよ」  悟は薬缶を持たない左手で遼一を居間へと押しやった。遼一は笑いながら台所を後にした。  狭いアパートにコーヒーの香りが満ちる。  いつも遼一は、自宅ではインスタントを飲んでいる。豆を買ってきて淹れようという発想は自分にはなかった。うまいコーヒーを飲ませる店を二、三軒知っていれば事足りた。  が、東京を離れると、チェーン店の味を上回る店になかなか出会えない。自宅でこの香りを楽しめるのは、悪くない。  悟がカップをふたつ、神妙な顔で床のテーブルに置いた。 「どう……かな」  遼一は味を見てみた。香りは飛んでいるが、苦みは強めで自分好みだった。 「うん。うまいよ」  悟はよしゃっと拳を握った。自分の分には砂糖と牛乳をタップリ入れた。遼一はそれを見て、 「そんなにしたら何を飲んでるか分からなくなるだろう」 と冷やかした。   窓でポツポツと音がした。雨だ。夏は終わった。これからはひと雨ごとに気温が下がる。遼一は故郷の気候を思い出した。こちらでは九月に残暑は存在しない。 「報告、したよ」  カップを口に当てたまま、悟が呟くようにそう言った。 「そうか。どうだった?」  遼一には何のことだかすぐ分かった。悟は八月末の模試の結果を、親(多分母親)に伝えたのだ。場合によっては悟を可哀想な目に遭わせるかもしれないと思っていた、あの件だ。 「とくに何も」  遼一は「そうか」と短く答えた。 「でも、来週の三者面談、行くって」  どこを見ているのか、ぼんやりと遠くを見る目つきで悟は言った。テーブルに深く肘をついて、あと何センチかで突っ伏してしまえそうに身体を曲げて。  いつも体調悪いことが多くて、普段あんまりそういうの来ないけど、今回は行くって。そう言ってた。  悟は抑揚のない、か細い声で呟いた。  その日の夜は、自宅に帰りたがらない悟を夕食に誘った。予想通り悟に否はなかった。遼一は自分の携帯電話を悟に渡し、家に連絡を入れさせた。 「もしもし、悟です……こんばんは。あの、今夜、友人と食事して帰ります。……はい。じゃ」  礼儀正しい言葉遣いだ。電話を返して寄こした悟に、遼一は尋ねた。 「お手伝いさんだったのか」  できれば直接親御さんに伝えて欲しいものだ。無表情のまま悟は答えた。 「ううん。珍しく親が出た」 「……ふーん。親御さん何か言ってたか」 「別に何も」  悟が親への不満を口にするたび、遼一は、微妙な年頃特有の親への反抗心かもしれないと思っていた。だが、今の他人行儀な会話は、親子の親しみが皆無だった。悟は真実を語っている可能性が高くなった。  最近たびたび外で食事をする、そしてそれを先方に馳走になっている息子に対して、何の配慮もないのだろうか。小遣いをふんだんに渡しており、それで好きにすればいいと思っているのだろうか。  遼一は自宅で食べるときも外食でも、悟にその費用を負担させたことはないが、訪れた先が一般家庭なら迷惑がられるのではないか。  図々しいのか、それとも本当に息子の行動に興味がないのか、多分後者だ。だが、その割にはよくしつけられた言葉遣いを悟はする。このアンバランスは何なのだろう。 「悟、何が食べたい?」 「何でも。遼一さんは?」  遼一は、「俺も特に浮かばないなあ」と言いながら車の鍵を手に取った。悟からの提案があった。 「じゃあさ、お店を見ながら考えるってのは?」 「見ながら?」 「うん」  悟は、街一番の商店街の名を挙げた。終始歩行者天国になっている、専門店や古い店があるであろう通りだ。そこを歩けば飲食店はいくつもあるので、中から興味を引かれた店に入ればいいというのだった。 「ああ……まあ、そういう手もあるが」  遼一は歯切れ悪く言った。 「あそこは車を停めづらいから」  悟は軽い口調で言った。 「近いんだから、歩けばいいじゃん」 「この時間に空いてるのは、居酒屋みたいな店ばかりじゃないのか」  どうせ見ながら入る店を決めるなら、ショッピングモールでいいじゃないか。遼一はそう言った。  街の外れに最近、全国展開のショッピングモールができていた。そこならテナントの飲食店にピンが来なければ、スーパー部門で惣菜を買って帰ることだってできる。  悟が望むなら居酒屋メシだろうが、高級レストランだろうが連れていくが、とくに希望がないなら、さくっと食べさせて、帰宅が遅くならないようにしてやらないと。  悟は少し考えて、「じゃあ、僕の知ってる店へ行こう」と言った。 「近いから、車は置いて。ちょっと歩こう」  そう言う悟に、遼一は素直についていくことにした。どんな店に連れていかれるか、それはそれで楽しみではあった。  悟の選んだのは公園へ向かう道だった。  この先には引っ越す前の図書館があった。図書館をやり過ごして北へ進むと大きな橋があり、自宅はその橋を渡った向こうだった。お屋敷へ移る前の、母と暮らした自宅だ。思い出して楽しい気分になる記憶ではあまりない。 「まだ、あったんだ……この店……」 「知ってるの?」  悟に連れていかれたのは、公園のすぐ手前にある、小さなラーメン屋だった。 「ああ、古い店だ」  のれんをくぐると、遼一の古い記憶そのままに、細いL字のカウンターと、卓が二つ並んでいた。遼一は卓の方を選んでかけた。注文は醤油ラーメンだ。悟も同じものに決めていた。 「遼一さん、せっかくこの街に帰ってきたのに、普段ラーメンって食べないの?」  確かにこの街で有名なB級グルメはラーメンだった。わざわざ飛行機に乗って味わいにくる趣味人がいるほどだ。 「そうだな。記憶にある店は街中が多くてな。車では行かれないから」 「ヘンなの。遼一さんって、東京暮らしが長かったんでしょ? 向こうでは車は逆に不便だから、みんな歩くって聞いたよ」  遼一さんのアパートから、街中ってそんなに距離ないじゃない。悟はそうつけ加えた。  遼一は黙って店の角に吊されたテレビの画面を眺めた。そういえば、こういう店ではこういう配置になっていたものだ。悟はテーブルに両肘をついて微笑んだ。 「このお店……。何だろう……誰かに連れてきてもらった記憶があるんだ」  遼一はテレビから悟の顔に視線を戻した。 「僕が子供の頃、家にいたお手伝いさんかな」  悟は過去にその目の焦点を合わせ、独り言のようにそう言った。遼一は悟の追憶を邪魔しないよう、静かにコップの水を飲んだ。 「そのひとにはずいぶん可愛がってもらったような気がするけど……」  注文した麺が出てきた。悟は意識を現在に戻し、嬉しそうに食べ始めた。遼一にとっても、確かに懐かしい味だった。東京のラーメンとは名前は同じでも、まるきり別の食べものなのだった。 「そのお手伝いさん、今もいるのか?」  遼一は麺をすする合間に訊いた。悟は首を横に振った。 「ううん。もういない」  ぎこちなく麺をつまみ上げながら、悟は言った。 「どうしてだろう。僕が小学校に上がる頃には、もういなくなってたな」  悟は自分の記憶を巻き戻すのに飽きたのか、くるりと遼一に笑顔を向けた。 「遼一さんは? この店、入ったことあったの?」 「……ああ」  この店は遼一の記憶の中にも存在していた。 「昔、そこの橋を渡った向こうに住んでいた。親に連れられて街中に買いものに来ると、最後ここでラーメンを食べて、タクシーで残りの道を帰るってことが何度かあったな」 「そうなんだ」  悟はにこにこと遼一の話を聞いていた。遼一はあまり昔の話をしない。聞かせたところで、とくに面白くもないだろうにと遼一は思った。  会計を済ませて外へ出ると、悟は笑顔でこう言った。 「せっかくだから、商店街を回っていかない?」  何だろう。今日はずいぶん商店街押しだ。 「いや、止めとこう」  真っ直ぐ戻って車を出して、悟を送ってやらないと。  ここから商店街を回って帰る。そのルートは、もう辿りたくない。 「ちぇ……がっかり」  悟はふざけたように口を尖らせた。
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