三、雨-4

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三、雨-4

 時間いっぱい、悟は大塚と教室で母を待った。母は現れなかった。 「母ちゃんから携帯に何か言ってきてないか。あ、お前携帯は持ってないのか」  悟は大塚の向かいで、小さくなって下を向いていた。膝に指を食い込ませて。  普段悟に興味のない母は、珍しく言ったのだ。「よくやったわね」と。  悟の耳にザーザーとノイズが響いている。雨だ。放課後、三者面談のために向かい合わせに並べた机を挟み、悟は大塚と向かい合って座っていた。隣の親の席は空いたまま。  夏休みの終わりに受けた模試の点数が、珍しく五教科ほぼ同じくらいに並んでいた。いつもは英語の点数だけが悪くて足を引っ張っていたものなのだが。  いつからか、母は悟の成績を見なくなった。思い起こせば、小学校の前半くらいまでは、悟がテストで間違えたのを見ると不機嫌になった。そのくらいには興味を持っていたのだ。  いつからだろう。母が、悟が持ってくるテストの結果を見たがらなくなったのは。  母は悟の幼い頃から何かと不調が多く、伏せっていることも多かった。  だから悟は母に遊んでもらった記憶も、どこかへ連れていってもらった記憶も、数えるほどしかない。その膝へ甘えても、具合が悪いからとお手伝いさんを呼ばれた。  だがそれでも食事は一緒にしたし、家の都合で改まった場所に出ることもあったが、困らないように立ち居振る舞いを厳しくしつけられたりはしたものだ。  悟が大きくなり、背丈が伸び出した頃からは、母との会話がなくなっていた。  親としての役割は、義務は果たしたと思っているのだろうか。幼児の愛らしさがなくなったら、耐える価値がないのだろうか。悟には分からない。  母と視線が合わなくなった。母はしばらく前から悟を見ない。 「おう、篠田ぁ。お前もう母ちゃん当てにすんの止めて、これからは毎回、この間の兄さんに出てきてもらった方がいいんじゃないのか」  担任の大塚がため息混じりにそう言った。  悟は大塚に詫びを言って、重いかばんを肩にかけた。  悟はひたすら本を読んで暮らした。  楽しい本、ワクワクする本、悲しい本、科学読みもの。本を読んで、その中で繰り広げられる世界に没頭すると、他のことはどうでもよくなる。誰もいない家にひとりぽっちでいることも気にならなくなる。  誰からも話しかけられず透明人間のような自分だが、本の中の原色の世界にいれば、逆に毎日通う学校の方が空虚で、クラゲのように透明なクラスメートに囲まれているような気持ちがする。  ただ暴力だけが悟を現実に引き戻し痛めつけた。だが暴力ももうなくなった。  暴力はここ数ヶ月悟を脅かしていない。多分もう悟は脅かされることはない。  どうしてだったろう。雨に濡れながら、悟はぼんやり記憶をたどった。  物心ついて、幼稚園に放り込まれた。  ぼんやりした子供だった悟は、不器用でいろんなことがみんなと同じようにはできなかった。幼稚園に入る前に、みんなは家庭でいろいろ練習していたのだ。名前を呼ばれたらお返事する。服を自分で着替える。だが悟はひとり何もできなかった。  それをこっぴどくからかわれて、悟はひとが嫌になった。取り合わずにいると髪を引っぱられた。小突き回された。そこから始まったいじめだった。  小学校に上がってもいじめっこはついてきた。ひとり、執拗に悟を狙う悪ガキがいたのだ。悟が痛みに顔をしかめ、悲鳴をこらえているのを、いつもながめて愉しんでいた。  だが、もうそいつも悟のそばにはやってこない。  そう。あのひとが追い払ってくれたから。  あのひとが。 (遼一さん……)  冷たい雨が身体を濡らした。勢いよく叩きつける雨とその音は、現実から悟を切り離した。雨に周囲を覆われて、悟はふらふらと歩き続けた。  母は自分を愛していない。父はどこにいるのかいつもいない。友達もない。自分は誰の目にも見えていない透明人間のようなものだった。本を読んでいるとき以外は、自分は存在していないのと同じだった。確かに存在するのは暴力に晒されているときだけ。なのに。  あのひとは、自分を見つけてくれた。  遼一は、自分を見た。話しかけて、笑ってくれた。自分の声を聞いてくれた。暴力の介在がなくても、遼一の前で、確かに悟は存在したのだ。  透明人間でも、サンドバッグでもない自分。 (遼一さん)  だから、校門を出ると右を見る。遼一が来ていて、車を停めているとしたらそこだから。  だから、語学を教えてと頼んだ。  だから、足繁く部屋へ通った。うるさく思われない程度に抑えようと思っているのに、ついつい足が向いてしまって。  遼一の前では、悟は透明人間ではなかった。遼一のそばにいて、いじめが止んで、自分は生まれ直したのだと思った。ようやくひとりの人間になれたと思ったのだ。  シャツが、ズボンが濡れて肌に貼りついた。冷たい雨に濡れた布地が、自分の肌から体温を奪う。  遼一のおかげで人間になったのに、また冷たい透明人間に戻ってしまう。柔らかいままでいて傷つけられぬよう、誰にも触らせず固く凍らせた心。あの冷たい心に戻ってしまう。  自分が人間になったら、温かい血の流れるひとりの人間になったら、母も体温のある普通の人間の顔を見せるのではないか。悟は一方的にそう思い込んでいたのだろうか。  悟は首を振った。前髪から垂れた雨水が目にしみた。  ぼやけた視界に、見慣れた古いアパートが映った。悟はゆっくりと細い敷地を通り抜けた。いつも停めている場所に遼一の車はなかった。  悟は階段に足をかけた。雨音の奥で、カタン、カタンと音がした。  ずぶ濡れの制服が身体に貼りついて、自分の動きを鈍くする。身体が重い。  悟はドアの横に崩れるように座り込み、膝を抱えた。 (遼一さん)  夕暮れの川辺。四月のコーヒーショップ。みんなが家族で行くと有名な地元のレストラン、悟が内心憧れていたそこに連れていってくれたのも遼一だった。  担任の大塚に会いに来てくれて、川べりの公園で悪ガキと交渉してくれた遼一。  夏の花畑。食べてみたくて最後まで迷った末、選ばなかった方のデザートを、わざと自分が注文して、皿ごと悟にくれた遼一。親にもそんなこと、されたことはない。むず痒いような、くすぐったいような、そんな気持ちでタルトを頬ばる自分を、遼一はなぜかじっとながめていて。  悟にとっては誰もみな半透明なクラゲのようなものだったが、いつも彼だけはくっきりと人間だった。多分、彼だけが自分を人間として見てくれていたからだ。  本当はどうか分からない。両親もクラスメートも遼一も、実際のところそれぞれがどんな視界を持っているかなど永遠に分からない。だが。  悟は何度も自分に向けられた、遼一の笑顔を思った。それは繰り返し悟を安心させた。嬉しかった。話しかけられて、扉を開け、自分が中へ入るまで支えていてくれて。  悟が押し黙ると、いつも心配そうに悟の目をじっと見ている遼一。  親切なひとだ。  悟は膝に顔をうずめた。  身体に貼りつく濡れた布が、皮膚の感覚を呼び覚ました。水分が素肌の温度を奪っていく。悟は寒さに震えた。  が、その一方で、皮膚の奥で熱い流れが生まれるのを感じていた。寒気があるのに熱っぽい、性質(タチ)の悪い風邪を引いたときのあの感じ。 「遼一さん……」  その名が漏れ出た唇が、咽が熱かった。悟は寒さと熱量に耐えきれず縮こまって自分の肩を抱いた。  鈍い低音で雷が幾度も鳴った。遼一は帰ってこない。多分仕事先に出かけているのだろう。それともほかの用事だろうか。  いつもなら悟がやって来る放課後の時間帯、遼一は家で仕事をしている。  もしかして、今日は自室に戻る予定はないのかもしれない。濡れたまま座っていたら凍えてしまうだろうか。悟はそれでいいと思った。  誰にも顧みられず生きるなら、遼一を待ってここで死ねばいいのだと思った。  布地の貼りついた素肌が冷やされ、体温が奪われていく。身体の底が妙に熱い。背筋がカタカタと震えた。  そうしてどのくらい震えていただろうか。  激しい雨音に混じって、車のエンジン音が近づき、停まった。聞き慣れた遼一の茶色いセダンだった。
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