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四、過ぎゆく秋と、冬の初め-1
遼一はカギをひとつ、悟の目の前に置いた。かちゃと小さな音がした。
土曜の昼間、いつもよりも少し大きな荷物を抱えてやって来た悟は、まず台所でコーヒーを淹れた。最近すっかりこれが習慣となっている。
居間でPCに向かいながら、遼一は台所で悟が湯を沸かしたり、ドリッパーをセットしたりする音を聞く。
ときには悟が高めの声で、小さく何か歌っていることもある。
静かな、穏やかな時間。この穏やかさを聴いていると、遼一は心の底に溜まった古い澱が洗い流されていくように感じた。澱の奥に沈む膿んだ傷が十数年を経て塞がるだろうか。
悟は、いつものように遼一にはブラックを、自分のカップには砂糖と牛乳をプラスして、揃いのカップをテーブルに運んできたのだった。
悟はカップを持ったまま聞いた。
「何、これ……」
「カギだ」
悟は遼一の顔を見上げた。
「うん。だから何のカギ?」
遼一はコーヒーをひと口飲んで、こう言った。
「この部屋のカギだよ」
悟は不思議そうな顔をした。意味をまるきり呑み込めていない。遼一は苦笑した。
「まだまだ子供だな。これは合いカギを手渡されるってシチュエーションなの」
悟は慌ててカップを置いた。
「え……?」
遼一は身を乗り出して悟の顔をのぞき込んだ。
「お前に持っていて欲しいんだ。この前みたいに悟が濡れネズミになっているかと思うと、おちおち仕事にも出られないからな」
これから気温がどんどん下がる。自分が外出している間に悟が来ていて、万一雪に降りこめられでもしたらと思うと気が気でない。
「部屋の合いカギを渡すなんてさ、恋人同士……みたいだね」
悟は上目づかいにそう言った。
「『みたい』か。随分冷たいことを言うんだな」
「え?」
遼一は悟の額を指の先で軽くこづいた。
「俺はお前に告白したぞ。お前も俺に言ったじゃないか、『好きだ』って」
暮れゆく台所で、そう言って悟は遼一の胸で泣きじゃくった。あの日からまだ数日しか経っていない。
「そしてやることはもうやっちまってる。これが恋人じゃなきゃ何なんだ」
「遼一さん……」
悟の瞳が濡れる。花が咲くように唇が開いた。
「ホントに? 本当に僕、遼一さんの恋人?」
「何だ。嫌なのか」
「そんな訳ない」
「じゃ、これは悟のもの」
遼一はカギを悟の手のひらに握らせた。握らせたその拳をポンポンと軽く叩き、遼一は残ったコーヒーを飲み干した。
ひと仕事して、悟は仕事をする遼一の後ろで勉強をして、頭が疲れたら悟を連れて買いものに出よう。ひとと過ごす穏やかな暮らし。自分にそんな時間が訪れる日があるとは思っていなかった。
悟がふっと目を伏せた。
「遼一さんがこうして部屋のカギを渡すのって、何人目?」
「え?」
「これまで何人の女のひとにカギを渡してきたの?」
それとも男? 悟は暗い声でそう聞いてカップを深くのぞき込んだ。この反応は想定していなかった。
「はじめてだよ。お前がひとり目」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃ、あのひとには?」
「『あのひと』?」
悟は唇をかんだ。少しして、絞り出すような声で言った。
「昔、この街で、遼一さんが好きだったひと」
「何の話だ」
「つき合ってたんでしょ?」
「だから、何の話だって」
悟は首を左右に振った。
「とぼけないで。誰かいたんでしょ? 遼一さん、前に言ってたじゃない。『やんちゃしてこの街を追い出された』って。そのひとと、何かあったんでしょ?」
咽にザラついたコンクリートの塊をねじ込まれたように感じた。
カギを差し出されて、合いカギを贈られたのも分からない子供が。
詳しく話したことなど一度もない、遼一の古傷をどうやって嗅ぎ当てたのだ。
「図星だね」
悟は押し黙った遼一の腕に自分の腕を絡め、くつくつと妙に暗い声で笑った。
「でも今は、遼一さんは僕のものだよね」
悟の体温を感じ、遼一は咽のつかえを呑み込んだ。
「図星じゃないよ。誰ともつき合ってたりしなかった」
嘘ではない。あれは交際などという言葉で表せるものではなかった。
「そもそもその頃、俺高校生だぜ」
言ってから、それはこの際何の意味もないことに遼一は気づいた。悟は中学生だ。
遼一は自分の腕にからまる悟の腕を強く引いた。悟は重心を失って遼一の胸に倒れ込んだ。遼一は悟の顎をとらえ、その唇をふさいだ。悟がバランスを立て直せないのにつけ込み、遼一は悟の身体を押さえつけた。
「あっ、遼一さん……」
遼一は唇を悟の首に、鎖骨に這わせた。遼一の唇が肌に当たるたびに、悟の細い腰はガクガクと震えた。遼一はそうしながら悟のシャツの裾をまくり上げ、しなやかな腹から胸の感触を味わった。
「あ……あ……あっ」
悟は小さな叫び声を上げながら、遼一の髪に指をからめた。
「ごめんなさい、あなたを困らせたいんじゃないんだ。ただ、僕は子供だから――」
あなたの記憶の中の誰よりも、僕を好きになって欲しいんだ。
顔を上げた遼一に、悟は泣きそうな顔でそう言った。
莫迦な子だ。もうとっくにお前は俺の一番なのに。
遼一は荒々しく悟の衣服を剥ぎ取った。部屋の空気に素肌が晒されたとき、悟は身体を丸めて柔らかいところを隠した。悟の腕をつかみ遼一が開かせようとしたとき、悟は懇願した。
「シャワー、使わせて……」
遼一はそんな悟に構わず、悟の身体をぐいと開いた。
「まだいい」
「待って。お願い。あ……っ、や……」
悟の身体には弱点をいくつも発見していた。そこを順に攻めていけば、悟がもう抵抗できなくなるのはすぐだ。十五歳の敏感な心臓は遼一の愛撫に破裂しそうに早鐘を打つ。
悟の瞳から熱い涙がとぷんとあふれた。
遼一の手が悟の裸の腹から腰をゆっくり行ったり来たりと撫でていた。かたわらに肘をついて寝そべり、虚脱する悟を慰めるようにそっと。
これも穏やかな時間。
悟の羞恥や当惑を呑み込んだ満足げな呼吸が、メトロノームのように秋の午後のときを刻む。
「悟……」
「……ん?」
「今日は何と言って家を出てきた?」
「ん……」
遼一はついに悟が自室に一泊することを許した。今日と明日、この土日は一緒に過ごす。明日、日曜の夜いつものように悟をコンビニの角まで送っていくまでずっと。
悟は面倒そうにのろのろと答えた。
「いつもと同じだよ。友だちのところで勉強するって。泊まってくることも、ちゃんと言ってきたよ」
無断で来てはいないようだ。だが確認すべきはもうひとつ。
「それを誰に言ってきた?」
「佐藤さん」
「佐藤さん?」
「うん。早番だったから」
早番?
疑問に遼一の手が止まったらしく、悟はその手を取った。
「昔は住み込みのひともいたんだけど、今は二交代かな。朝七時からひとり来て、午後の二時からまたひとり来る。来るのはそれぞれ週に四回か五回だから、誰もいない時間帯もあるけど」
悟はそう説明しながら、遼一の指を開いたり閉じたり、手のひらのしわをなぞったりして遊んでいた。
「だから、朝家にいたのは、今日早番の佐藤さん」
そういうシステムだったのか。遼一は恐れ入った。遠い記憶のどこかでうっすら聞いたような話ではある。
「悟ぅ、俺毎回言うけどさ、そういうことは親御さんに直接言えよ」
小言みたいなことを言いたくはない。が、しかし。
悟は遼一の指に唇を当てた。
「ウチは遼一さんが思い描くような温かい家庭じゃないから」
遼一の中指の関節を、白い歯で甘く噛んだ。言葉の端々で遼一の指に舌が触れた。
「土曜の朝に父親が家にいる訳ないし。母親は自分の部屋から出てこないよ。いない相手にどうやってものを言うんだよ」
お手伝いさんに言っとけばあのひとに伝わるからいいんだよ。そう悟はつけ加えた。
遼一は自分の手を悟の口許から取り上げ、身体を起こして悟の顔をのぞき込んだ。その瞳は生きていた。遼一は安堵した。
以前なら、親の話になると生命のないガラス玉に戻ってしまったものだった。遼一が悟を愛したから、悟は生き返ったのだったら、もしそうだったら嬉しいと遼一は思った。
「じゃあ、誰がお前を育てたんだ」
悟は少し考えたのち答えた。
「うーん。小学校に上がってしばらくは、母親ももう少しそばにいたかな。あとはお手伝いさんじゃない? 父親は今よりは帰ってきてたけど、構ってもらった記憶はないね」
ふたりとも、僕に興味ないんだと思うよ。
遼一は悟の頬を撫でた。
「じゃあ、俺がご両親から悟を奪っても、ご両親は支障なく生きていけるな」
「遼一さん?」
「あと半年して、悟がちゃんと高校に受かったら、俺のところから通うといい」
いくら悟が反抗期だったり、幼くて両親を取り巻く状況を正しく理解していなかったのだとしても、そんな生物学的な両親より自分の方が、この子を愛しているのは間違いなかった。
「俺の言ってることが分かるか?」
遼一がそう聞くと、悟は上目づかいに小さく答えた。
「……一緒に住もう……ってこと?」
遼一は優しく笑った。
「正解。先に言っとくけど、俺、誰とも一緒に暮らしたことはないからな。こんなこと誰かに言うのも初めてだよ」
だから成績をもう少し上げて、外出するときはきっちり連絡して、品行方正でいるんだ。遼一はそう悟に言い聞かせた。そうすれば、通学や勉強に有利だから下宿するという言い訳が通用する。
「もちろん、俺たちがこんなになってるのは極秘だ。俺のところで、悟がこんな格好で、可愛い声を上げてるのが知られたら、許される訳ないからな」
最悪接近禁止命令が出ると、会うことすらできなくなってしまう。
遼一がそう言うと、不服そうに悟は言った。
「そういう風に言わないで」
骨張った膝をすり合わせて目を伏せた。
「……また、ガマンできなくなっちゃうじゃないか」
可愛い。とてつもなく可愛い。
どうしよう。俺。
メロメロだ。
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